人と道具

2004年6月3日 日常
(読売新聞)
長崎県佐世保市の大久保小(出崎睿子校長)で、6年生の御手洗怜美(みたらい・さとみ)さん(12)がカッターナイフで首を切り付けられ死亡した事件で、県警佐世保署に補導された同級生の女児(11)が動機について、「インターネット上で、自分のことについて怜美さんが書き込んだ内容が面白くなかった。いすに座らせて切った。殺すつもりだった」と供述していることが、2日わかった。

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凄惨な事件である。といいながらも昨今の日本を考えると特異な事件に思えなくなってきているという事が本当に怖い。これがこの国の姿なのであろうか?また、どの程度、書き込みの内容が、どのように面白くなかったかは分からないが、それが理由で、殺意を抱くというのは、被疑者の生活環境の結果なのか?殺意というのは、そんなに簡単に抱いてしまうものであろうか。

わからない。よくわからない

自分自身としては32年間で1度も抱いたことはない。それだけ自分の生活環境は今と比べて牧歌的だったのだろう。というより自分だけでは、なく皆そうだったはず。

そもそも、この事件はインターネットというシステムが悪いのだろうか?どうもインターネットが世間に浸透してきてから、日本の場合、「陰」のニュースばかりが目立つ。インターネットは「活版技術」以来の革命的発明とすら言われている。考えてみれば、こうして日記を書いているのも、メールを打つのも、ネット上で買い物をするものインターネット技術のおかげである。これらを「陽」とした場合、どうも「陰」の方が凌駕しているような気がしてならない。

今はどうか分からないが、高校の頃「バイクの免許を取らない」という運動があった。理由はバイクは危ないから乗るな。という事である。しかし考え様によっては、「(その物が)存在するからダメ」とも言える。また、バイクの他にも昨今のカメラ付き携帯電話による、盗撮や、いわゆるデジタル万引きといった問題。これも「携帯にカメラがついているから」という人もいる。しかし、これらは道具が悪い訳でない。バイクにせよカメラ付き携帯電話も、どこまで行っても「道具」が自ら何かしでかすという事はない。これらを利用するのは人間である。従って、利用よる人間によっていかようにもなる訳で、それらを置いて道具のせいにするのは、問題ではないか?

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