【映画遊戯】笑の大学
2004年11月1日 映画遊戯映画の日という事で、業務終了後、笑の大学を見に行く。ストーリーは戦時中の喜劇作家と検閲官のやりとりをひたすら繰り返すといったもの。後で知ったのだが、もともと舞台物を映画化したので、大きなセットもなければ特撮やCGもない。机1つで喜劇作家と検閲官が淡々と会話が繰り広げらけれる。
検閲官は、喜劇の上演許可を出さないように難癖をつけ、逆に作家はそれらを1つずつクリアして何とか上演許可をもらおうとする。そして2人は、お互いの領分を越え次第に分かり合える寸前の所までいくことになる。とざっと、こんな感じの映画である。
この映画を見て思うこと。結末としては、検閲官と作家が、分かり合え合える寸前の所まで行く。(寸前というのも微妙な表現ではあるが・・・)当初は検閲官は「つぶしてやろう」という気でかかっているはずなのに、こういった事象になるというのは、相手(作家)の言い分に耳を貸し、少しずつではあるが、相手を理解しようという事に他ならない。これにスコープを当てて考えた場合、最近、自分の周りでは、ディスカッションによる問題の解決というのが、余りにも少ないと感じる。というより、ディスカッションに前に一方的に先方から話を切られてしまい、音信不通となるケース。で、これの結論としては、先方が「言いたくない」とか「分かってもらえない」みたいなこちらにしてみれば極めてアヤフヤな返事しかかえってこない。これでいいのだろうか?議論つくして、決裂となるのであれば仕方ないが、それすらならずに話を打ち切るというのは身勝手もいい所だ。
そもそも日本人はディスカッションが得意ではないと思われる。昔は自分も前述のように思っていたが、最近では、とことこ議論尽くしてこたえを出すべしだと考える。この考え自体が古いのか?
検閲官は、喜劇の上演許可を出さないように難癖をつけ、逆に作家はそれらを1つずつクリアして何とか上演許可をもらおうとする。そして2人は、お互いの領分を越え次第に分かり合える寸前の所までいくことになる。とざっと、こんな感じの映画である。
この映画を見て思うこと。結末としては、検閲官と作家が、分かり合え合える寸前の所まで行く。(寸前というのも微妙な表現ではあるが・・・)当初は検閲官は「つぶしてやろう」という気でかかっているはずなのに、こういった事象になるというのは、相手(作家)の言い分に耳を貸し、少しずつではあるが、相手を理解しようという事に他ならない。これにスコープを当てて考えた場合、最近、自分の周りでは、ディスカッションによる問題の解決というのが、余りにも少ないと感じる。というより、ディスカッションに前に一方的に先方から話を切られてしまい、音信不通となるケース。で、これの結論としては、先方が「言いたくない」とか「分かってもらえない」みたいなこちらにしてみれば極めてアヤフヤな返事しかかえってこない。これでいいのだろうか?議論つくして、決裂となるのであれば仕方ないが、それすらならずに話を打ち切るというのは身勝手もいい所だ。
そもそも日本人はディスカッションが得意ではないと思われる。昔は自分も前述のように思っていたが、最近では、とことこ議論尽くしてこたえを出すべしだと考える。この考え自体が古いのか?
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