昨日・一昨日の晩と遅くまで親戚縁者が色々と段取りし、今日は自宅にいる故人を斎場まで運び、お通夜というスケジュール。斎場に向かう前に納棺というイベントがある。これは血の濃い親族が故人の体を拭き、足袋を履かせるなどというもの。自分の家から葬式を出すのは、およそ23年ぶりだから、個人的にこれらの参加は実質的に初めての経験となる。親族が一通り故事の体を拭くといよいよ、棺に納める運びとなり、故人の愛用品も一緒に棺に納める。と、ここでハプニング発生。親族が厳かに愛用品を入れる所で、一人が小さなバックを棺に納めようとすると、そばにいた叔母が
「そりゃ、私んだよ!」
と慌てて取り返す。不謹慎とは分かりながら参加一同、こらえきれずに大爆笑。昨日も書いたのだが、96歳まで生きたのだし闘病生活の末という訳ではなかったので、泣くなって悲しいは悲しいのだが、それとは別の感情も持ち合わせていて、故人も親戚縁者が一同に介し「ある程度不謹慎」に送り出す方が良いと思うのではないか?とも思う。
午前中からは配膳の手配やら、香典返しやらで、ようやくこぎつけたという感じで、お通夜も何とかこぎつけた。そして何より問題が、お経を上げる住職。この住職が、最近に珍しく中々の厳格な僧侶で、過去に
・お通夜の席で酒を飲んではならない
・読経の際に、物音を立てると振り返ってチェックする
という逸話を持っているそうだ。また、住職の話に「でも」と反論しようものなら、そこから説教が2時間始るとの事。で、幸か不幸か父親が長男で、自分がその長男であり、このお通夜・告別式に於いては「血の濃い」部類に入る。そして、このお通夜・告別式では住職専属の運転手をおおせつかる。しかし、こんな話を聞かされると甚だ気が重くお通夜の時も、そのことばかり考えている間に終了。再び住職を寺に送り、ようやく食事にありつけるかと思ったが、急にお呼びがかかり香典の現金精査。弔問客が多かったたため時間がかかるが、なんとか合算。さて、これでと思った所、今度は明日の精進料理の配膳数の確認と、やる事は山積だ。ようやく食べようと思った頃には終了と結局は、ほとんど食べずしまい。その昔、伊丹十三の「お葬式」という映画を見たのだが、まさにその通り。ドラマようにお通夜や葬式でワンワン泣くというイメージは、ほんの少しで、大半は段取りと仕切りと慣れないお作法に右往左往する。
他の家はどうか分からないが、うちの親戚縁者が集まると、結構、大騒ぎとなる。残念ながら、この世の生を授かれば、もれなく死は約束事としてついて回るという訳で、その最期が、うちの祖母のように親戚縁者がワイワイ騒ぎながら送られるのも、それはそれで良い供養ではないだろうか。
追記:
最後にお清めの食事を少し食べたのだが、その中にお赤飯が入っていた。聞くと90歳以上でなくなった方は「めでたい」という理由で出されるそうだ。
>お悔やみ頂いた皆様
色々とご心配をお掛けしまして、ありがとうございます。というような訳で、右往左往しながら何とかお通夜まで終わりました。ずっと沈痛な雰囲気というのはなく、むしろメリハリが利いているような気がしていまして、それはそれでよい経験となっております。斎場から帰る途中、従兄弟と話していたのですが、今いる親族で96歳まで生きられるは、誰もいないでしょうという事。そして、段取りの段階で弔問客が100人と踏んでいたのですが、実際はその倍の訳200名もの方が弔問にいらしていただきました。これは故人の人徳が成せる業ではないかと思います。そんな中、今、自分が思うのが、自分はいくつまで生きられるか分からないが、もし、自分が死んだら知人・友達がたくさん弔問に来てもらい、騒いで送ってくれればなぁと思っております。そのためには、今、付き合いのある人を大事に。そしてこれから出会う人達を楽しみにしたいと思っています。
「そりゃ、私んだよ!」
と慌てて取り返す。不謹慎とは分かりながら参加一同、こらえきれずに大爆笑。昨日も書いたのだが、96歳まで生きたのだし闘病生活の末という訳ではなかったので、泣くなって悲しいは悲しいのだが、それとは別の感情も持ち合わせていて、故人も親戚縁者が一同に介し「ある程度不謹慎」に送り出す方が良いと思うのではないか?とも思う。
午前中からは配膳の手配やら、香典返しやらで、ようやくこぎつけたという感じで、お通夜も何とかこぎつけた。そして何より問題が、お経を上げる住職。この住職が、最近に珍しく中々の厳格な僧侶で、過去に
・お通夜の席で酒を飲んではならない
・読経の際に、物音を立てると振り返ってチェックする
という逸話を持っているそうだ。また、住職の話に「でも」と反論しようものなら、そこから説教が2時間始るとの事。で、幸か不幸か父親が長男で、自分がその長男であり、このお通夜・告別式に於いては「血の濃い」部類に入る。そして、このお通夜・告別式では住職専属の運転手をおおせつかる。しかし、こんな話を聞かされると甚だ気が重くお通夜の時も、そのことばかり考えている間に終了。再び住職を寺に送り、ようやく食事にありつけるかと思ったが、急にお呼びがかかり香典の現金精査。弔問客が多かったたため時間がかかるが、なんとか合算。さて、これでと思った所、今度は明日の精進料理の配膳数の確認と、やる事は山積だ。ようやく食べようと思った頃には終了と結局は、ほとんど食べずしまい。その昔、伊丹十三の「お葬式」という映画を見たのだが、まさにその通り。ドラマようにお通夜や葬式でワンワン泣くというイメージは、ほんの少しで、大半は段取りと仕切りと慣れないお作法に右往左往する。
他の家はどうか分からないが、うちの親戚縁者が集まると、結構、大騒ぎとなる。残念ながら、この世の生を授かれば、もれなく死は約束事としてついて回るという訳で、その最期が、うちの祖母のように親戚縁者がワイワイ騒ぎながら送られるのも、それはそれで良い供養ではないだろうか。
追記:
最後にお清めの食事を少し食べたのだが、その中にお赤飯が入っていた。聞くと90歳以上でなくなった方は「めでたい」という理由で出されるそうだ。
>お悔やみ頂いた皆様
色々とご心配をお掛けしまして、ありがとうございます。というような訳で、右往左往しながら何とかお通夜まで終わりました。ずっと沈痛な雰囲気というのはなく、むしろメリハリが利いているような気がしていまして、それはそれでよい経験となっております。斎場から帰る途中、従兄弟と話していたのですが、今いる親族で96歳まで生きられるは、誰もいないでしょうという事。そして、段取りの段階で弔問客が100人と踏んでいたのですが、実際はその倍の訳200名もの方が弔問にいらしていただきました。これは故人の人徳が成せる業ではないかと思います。そんな中、今、自分が思うのが、自分はいくつまで生きられるか分からないが、もし、自分が死んだら知人・友達がたくさん弔問に来てもらい、騒いで送ってくれればなぁと思っております。そのためには、今、付き合いのある人を大事に。そしてこれから出会う人達を楽しみにしたいと思っています。
コメント