情けは人のためにあらず
2005年8月26日 日常龍神さんは、このBLOGをよく読んでくだるようで、とてもありがたく思います。そんな中で、私が今、一番、興味があるコミュケーションという分野で共感して頂けているのも、なんだかうれしく思います。という事で、『ほぼ日刊イトイ新聞ーおとなの小論文教室』を参照
http://www.1101.com/essay/index.html
ここの『連鎖』というのは非常に考えさせられた。確かに振り返ってみれば、自分が、相手の意思には関係なく『攻撃された』と感じた場合、その対象の相手ではなくて、まったく関係ない人に対し、攻撃しているという事というのは、あるかもしれない。それは無意識のうちに行われている事なので、実際の所は、本当にどうであったかというのは、自分自身ではよく分からないというケースも間々ある。そうだとしても、無意識というのは、本能に依存しているみたいな所があるから、ある程度は仕方がないかもしれない。では、攻撃と具体的に何であろうか。一番、簡単な例で言えば『やつあたり』ではなかろうか。受けた方にとっては、非常に迷惑この上ないことだ。ほとんどのケースに置いては、当該事項とは関係なく攻撃するし、されてしまう。大嫌いである。多分、自分も若い頃というのは、よくやったのではないかな。
今を去る事、約2年前。仲間内2人に相当、酷いことをされたことがある。シャレで済むような話ではない。彼等は既にCompleteと思っているようだが、こちらとしては、まったくの解決されていないという認識だ。それが何であるかは、この場で言うことではないが、とにかく相当酷い仕打ちをされた。で、考えるに、その頃の自分というのを今、思い返してみれば、やはり関係ない人に対して攻撃していたかもしれないし、聞きたくもない愚痴を周りにこぼしていたかも知れない。もちろん「連鎖」などという事など、この時点では思いもよらなかった。しかし、そんな状態が数ヶ月続いた、ある時、
このままでは、周りまで不幸にしてしまう
と考えるようになった。多分、自分のどこかで「このままではいけない」という信号が増幅したのだと思う。自分で落ち込むの勝手。ただ、それが他人に波及する事があってはならないと感じたのだ。そこで考えた。できることには、限界があるかも知れないが、少なくとも、周りまで不幸にするのはよくないということ。
願わくば、何か人の為にできれば
と針路を180度思い切って変更してみたのだ。かといって、実際にやったことといえば、ボランティアに登録したぐらいだが、やはり、この事象がなければ、そういった行動すら考えなかったかも知れない。結局の所、悲しいかな、人は「殴られないと人の痛みが分からない」という結論に達したのだ。つまり、その時の自分というのは
殴られ足りない人生だった
という事に気がついた。簡単に「意識改革」と言うけれど、一発、すごいカウンターを食らわないと、本当に大事な事には気がつかないのではないだろうか。自分の場合、それをくらったおかげで、針路変更ができたし、たくさんの友達が増え、よい経験が出来ていると思う。そういった意味では「無意識の意識改革」が進捗している最中。できれば、未来永劫続けられればと思う。「情けは人のためにあらず」なのだから。
http://www.1101.com/essay/index.html
ここの『連鎖』というのは非常に考えさせられた。確かに振り返ってみれば、自分が、相手の意思には関係なく『攻撃された』と感じた場合、その対象の相手ではなくて、まったく関係ない人に対し、攻撃しているという事というのは、あるかもしれない。それは無意識のうちに行われている事なので、実際の所は、本当にどうであったかというのは、自分自身ではよく分からないというケースも間々ある。そうだとしても、無意識というのは、本能に依存しているみたいな所があるから、ある程度は仕方がないかもしれない。では、攻撃と具体的に何であろうか。一番、簡単な例で言えば『やつあたり』ではなかろうか。受けた方にとっては、非常に迷惑この上ないことだ。ほとんどのケースに置いては、当該事項とは関係なく攻撃するし、されてしまう。大嫌いである。多分、自分も若い頃というのは、よくやったのではないかな。
今を去る事、約2年前。仲間内2人に相当、酷いことをされたことがある。シャレで済むような話ではない。彼等は既にCompleteと思っているようだが、こちらとしては、まったくの解決されていないという認識だ。それが何であるかは、この場で言うことではないが、とにかく相当酷い仕打ちをされた。で、考えるに、その頃の自分というのを今、思い返してみれば、やはり関係ない人に対して攻撃していたかもしれないし、聞きたくもない愚痴を周りにこぼしていたかも知れない。もちろん「連鎖」などという事など、この時点では思いもよらなかった。しかし、そんな状態が数ヶ月続いた、ある時、
このままでは、周りまで不幸にしてしまう
と考えるようになった。多分、自分のどこかで「このままではいけない」という信号が増幅したのだと思う。自分で落ち込むの勝手。ただ、それが他人に波及する事があってはならないと感じたのだ。そこで考えた。できることには、限界があるかも知れないが、少なくとも、周りまで不幸にするのはよくないということ。
願わくば、何か人の為にできれば
と針路を180度思い切って変更してみたのだ。かといって、実際にやったことといえば、ボランティアに登録したぐらいだが、やはり、この事象がなければ、そういった行動すら考えなかったかも知れない。結局の所、悲しいかな、人は「殴られないと人の痛みが分からない」という結論に達したのだ。つまり、その時の自分というのは
殴られ足りない人生だった
という事に気がついた。簡単に「意識改革」と言うけれど、一発、すごいカウンターを食らわないと、本当に大事な事には気がつかないのではないだろうか。自分の場合、それをくらったおかげで、針路変更ができたし、たくさんの友達が増え、よい経験が出来ていると思う。そういった意味では「無意識の意識改革」が進捗している最中。できれば、未来永劫続けられればと思う。「情けは人のためにあらず」なのだから。
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