たまにはマジメな話。
歴史というのは、それぞれの思想があったり、加害者・被害者という立場の人達が必ず登場するので、一方では英雄でも、一方では非難の的という事はよくある。さらにやっかいなのは、例えば戦勝国が敗戦国に「押し付けた」歴史というのが、そのまま記録として刻まれたりする。では、真実は何か?という論点になると中々、見出せる人は少ないというのが事実で、学校で習う歴史などは、歴史自体の表層にすぎず、先生が教科書読み上げて「ふ〜ん」と思い、テストが終わってしまうとクリアされてしまう。それら深部まで追求しようと思えば、自分で掘下げるしか手はない。つまりは興味がなければ永久に埋没されてしまうという事だ。日本の歴史というのは、近代になればなるほど、その傾向が強いという感じがする。ちなみに自分は思想家でも何でもない。単に何が起きていたのかを人より少し知りたいというだけである。
7〜8年前に、ドラマにもなった妹野河童の「少年H」という本を読んだことがある。戦時下で少年Hである妹野河童氏が、神戸の須磨で、大人達が言っていることや、世間の出来事に対して「おかしいなぁ」と思いつつ大人になっていったという事を綴った作品。その本の中で、神戸にたどり着いたユダヤ人の事が、ほんの少し書かれている。当時は気にも留めていないかったが、つい最近、誰かのBlogかmixiを読んでいて杉原千畝という名が出てきて、はっと、この少年Hの文中に出てきた事を思い出した。
杉原千畝という人は、おそらく日本史の本には出てくることないと思う。従って何かのきっかけがなければ、知る事のない日本の偉人であることは間違いない。
杉原 千畝(すぎはら ちうね)
日本の外交官
1900年1月1日〜1986年7月31日
1940年、ナチスドイツより迫害されたユダヤ人が、日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。当時の日本政府はユダヤ人に対しては中立な立場を政策としていたが、同盟国のドイツとの関係もあり、ビザ発給条件を異常に高くし、事実上、ユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていると言われている。しかしながら、杉原千畝外交官は、日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。記録上では2139枚、実際は6000人分のビザを発給したと言われている。その後、杉原が発給するビザで国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着く。
(一部、Wikipediaより抜粋)
調べると色々な解釈があるが、人道的な立場から実際にビザを発給したのは杉原本人であり、その功績を讃える人・国は多い。こういった人物が日本にいたという事実は、もっと国外だけではなく、日本国民に知らしめる必要性というのがあるのではないかと思う。そういった意味も含めて、悪いものは悪いと認識し、良い人(もの)はもっと知らしめる必要性があるのではないかと、最近、考える。歴史というのは、何も負だけではないはずだが、我々の習ってきた、それらはどうも「日本ダメ論」的な発想が強すぎるのではなかろうか。
歴史というのは、それぞれの思想があったり、加害者・被害者という立場の人達が必ず登場するので、一方では英雄でも、一方では非難の的という事はよくある。さらにやっかいなのは、例えば戦勝国が敗戦国に「押し付けた」歴史というのが、そのまま記録として刻まれたりする。では、真実は何か?という論点になると中々、見出せる人は少ないというのが事実で、学校で習う歴史などは、歴史自体の表層にすぎず、先生が教科書読み上げて「ふ〜ん」と思い、テストが終わってしまうとクリアされてしまう。それら深部まで追求しようと思えば、自分で掘下げるしか手はない。つまりは興味がなければ永久に埋没されてしまうという事だ。日本の歴史というのは、近代になればなるほど、その傾向が強いという感じがする。ちなみに自分は思想家でも何でもない。単に何が起きていたのかを人より少し知りたいというだけである。
7〜8年前に、ドラマにもなった妹野河童の「少年H」という本を読んだことがある。戦時下で少年Hである妹野河童氏が、神戸の須磨で、大人達が言っていることや、世間の出来事に対して「おかしいなぁ」と思いつつ大人になっていったという事を綴った作品。その本の中で、神戸にたどり着いたユダヤ人の事が、ほんの少し書かれている。当時は気にも留めていないかったが、つい最近、誰かのBlogかmixiを読んでいて杉原千畝という名が出てきて、はっと、この少年Hの文中に出てきた事を思い出した。
杉原千畝という人は、おそらく日本史の本には出てくることないと思う。従って何かのきっかけがなければ、知る事のない日本の偉人であることは間違いない。
杉原 千畝(すぎはら ちうね)
日本の外交官
1900年1月1日〜1986年7月31日
1940年、ナチスドイツより迫害されたユダヤ人が、日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。当時の日本政府はユダヤ人に対しては中立な立場を政策としていたが、同盟国のドイツとの関係もあり、ビザ発給条件を異常に高くし、事実上、ユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていると言われている。しかしながら、杉原千畝外交官は、日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。記録上では2139枚、実際は6000人分のビザを発給したと言われている。その後、杉原が発給するビザで国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着く。
(一部、Wikipediaより抜粋)
調べると色々な解釈があるが、人道的な立場から実際にビザを発給したのは杉原本人であり、その功績を讃える人・国は多い。こういった人物が日本にいたという事実は、もっと国外だけではなく、日本国民に知らしめる必要性というのがあるのではないかと思う。そういった意味も含めて、悪いものは悪いと認識し、良い人(もの)はもっと知らしめる必要性があるのではないかと、最近、考える。歴史というのは、何も負だけではないはずだが、我々の習ってきた、それらはどうも「日本ダメ論」的な発想が強すぎるのではなかろうか。
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