またしてもSAPIOの記事より。ずっと前にも、このタイトルで書いた覚えがある。どちらかという、戦闘意欲バリバリの女性が、正気とは思えない発言を繰り返しているようにも思えるジェンダーフリー論。看護婦が看護師と呼ぶようになったり、スチュワーデスがキャビンアテンダントと呼ばれるは、時代として理解するが、記事によれば「桃太郎は男女差別であるから桃子にしろ」とまでとの論調すらある。だったら、桃太郎という個体のキャラクターは尊重されないのか。と思う。
例で考えてみる。
同世代の男女4人が、川原でバーベキューに行くこととなった。現地の駐車場から、コンロ、鉄板やら買い出しの荷物やらを持って川原に向かう。火をおこして、材料を揃える。一通り食べ終わり、鉄板、皿などを洗って帰路につく。
−− 仕事分担 −−
・男が駐車場から重い荷物を持ち、火をおこし、最後に洗い物をする
・買出しの荷物で比較的軽そうな物を持ち、男が火をおこしている間に
調理をして、最後は男と一緒に洗い物をする。
そんなにおかしい話ではないと思うし、多くのバーベキュー好きは同じようにやっているのではないかと思う。100人に聞いても「別にヘンではない」という答えが返ってくるだろう。ところが、バリバリのジェンダーフリー論者がいた場合、「男が荷物を持つなんて誰が決めたのか」とか「女だからといって、調理をさせるのはおかしい」と主張するだろう。残念ながら、こんな人とはコミュニュケーションを図る自信がない。
上記の例は、ただ自然に、そうなったという方と見るのが普通だと思う。多分、人間の作りから言っても、女性より男性が重い荷物を持つには適していると思うし、目の前で女性が、重い荷物を持っているのを見て、見過ごすようなことがあれば、ジェンダーだ!などと言っている以前に、無条件でおかしいと思うだろう。これは考える事ではない。しかし、色々な本やら雑誌を見る限りでは、「女だからといって、男だからといって」という論調が強すぎて「思いやり」的な考え方が、すっ飛んでいるのでいないか。
弊社は外資で、この手の研修も年に1回は受けている。それが功を奏してかは分からないが、少なくても自分のいる事業所で、女性が昇進できないとか、給与格差があるという話は聞かない。そういう意味では、日本の企業に比べれば、かなり平等な会社であるとも言える。しかし、例えばある女性が職務において、女性が大きなダンボールを抱えているようなことがあれば、周りの男性の誰かが、代わりに運ぶという事は普通にある。誰もジェンダーなどと騒ぎ立てる人はいない。それが当たり前だと考えているから。
このジェンダーフリーという考え方。性別による差別があってはならないという点では理解できるが、だからといって何でもかんでも男女が平等にしてしまうというのは、良いのか?見た目で、出来ること、出来ないことというのは存在する訳で、それをすっとばしても理屈が大事なんて事は絶対にない。無論、明らかに「それは、女性だけがやる仕事ではないだろう」という会社/コミュニティが存在するのは分かる。ただ、それは外野から見ているだけであって、もしかしたら、当事者達にとっては丁度いいバランスが取れている状態であって、全然関係のない人が、とやかく言い、バランスが崩れた場合はいかがなものか。
ジェンダーフリーが全部イカンというのではない。改善するべき点は改善すべきである。しかし、このジェンダー云々を言う前に、1つ1つの事象を精査をしてからというのが前提ではなかろうか。そして、どんなに素晴らしい論拠を並びたてたところで「思いやり」であったり「信頼」を超越する論拠など絶対にない。論者はここからスタートすべきだと思う。
例で考えてみる。
同世代の男女4人が、川原でバーベキューに行くこととなった。現地の駐車場から、コンロ、鉄板やら買い出しの荷物やらを持って川原に向かう。火をおこして、材料を揃える。一通り食べ終わり、鉄板、皿などを洗って帰路につく。
−− 仕事分担 −−
・男が駐車場から重い荷物を持ち、火をおこし、最後に洗い物をする
・買出しの荷物で比較的軽そうな物を持ち、男が火をおこしている間に
調理をして、最後は男と一緒に洗い物をする。
そんなにおかしい話ではないと思うし、多くのバーベキュー好きは同じようにやっているのではないかと思う。100人に聞いても「別にヘンではない」という答えが返ってくるだろう。ところが、バリバリのジェンダーフリー論者がいた場合、「男が荷物を持つなんて誰が決めたのか」とか「女だからといって、調理をさせるのはおかしい」と主張するだろう。残念ながら、こんな人とはコミュニュケーションを図る自信がない。
上記の例は、ただ自然に、そうなったという方と見るのが普通だと思う。多分、人間の作りから言っても、女性より男性が重い荷物を持つには適していると思うし、目の前で女性が、重い荷物を持っているのを見て、見過ごすようなことがあれば、ジェンダーだ!などと言っている以前に、無条件でおかしいと思うだろう。これは考える事ではない。しかし、色々な本やら雑誌を見る限りでは、「女だからといって、男だからといって」という論調が強すぎて「思いやり」的な考え方が、すっ飛んでいるのでいないか。
弊社は外資で、この手の研修も年に1回は受けている。それが功を奏してかは分からないが、少なくても自分のいる事業所で、女性が昇進できないとか、給与格差があるという話は聞かない。そういう意味では、日本の企業に比べれば、かなり平等な会社であるとも言える。しかし、例えばある女性が職務において、女性が大きなダンボールを抱えているようなことがあれば、周りの男性の誰かが、代わりに運ぶという事は普通にある。誰もジェンダーなどと騒ぎ立てる人はいない。それが当たり前だと考えているから。
このジェンダーフリーという考え方。性別による差別があってはならないという点では理解できるが、だからといって何でもかんでも男女が平等にしてしまうというのは、良いのか?見た目で、出来ること、出来ないことというのは存在する訳で、それをすっとばしても理屈が大事なんて事は絶対にない。無論、明らかに「それは、女性だけがやる仕事ではないだろう」という会社/コミュニティが存在するのは分かる。ただ、それは外野から見ているだけであって、もしかしたら、当事者達にとっては丁度いいバランスが取れている状態であって、全然関係のない人が、とやかく言い、バランスが崩れた場合はいかがなものか。
ジェンダーフリーが全部イカンというのではない。改善するべき点は改善すべきである。しかし、このジェンダー云々を言う前に、1つ1つの事象を精査をしてからというのが前提ではなかろうか。そして、どんなに素晴らしい論拠を並びたてたところで「思いやり」であったり「信頼」を超越する論拠など絶対にない。論者はここからスタートすべきだと思う。
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