友人が上京。一緒に夕食を食べることとする。この友人も自分も昔から、食べることに関しては、一生懸命になる。年に何回かは、一緒に食事をするのだが、決して会ってから「さて、何食べようか」という事にはならない。予めお互いで会うという時は「どこで何を食べるか」という事は決定している。逆を言うと会うというより一緒に食事をするという方が、正しい表現かもしれない。
「類は友を呼ぶ」ではないが、周りには「食」にこだわる人が多い。仕事関係でも食べる事に関して貪欲な人がおり、何故か?と聞くと
食事の回数には限度があるから
食べる物にはこだわる
との答え。最初に聞いた時には「?」という感じであったが、よくよく考えてみれば、死ぬまで相当な回数なるももの制限があることには間違いはない。今日一緒に食事をした友人と話したもこの話に納得していた模様。目的にもよるが、誰かに会いう時「では、食事でもしながら」と言った具合に概ね食事がついてまわる。さらにそこでの食事が美味しければ、話が弾むことも多い。またBlogやWebの旅行記など、食事の話が出てくれると、やはり面白い。とすると、やはり「食事」という日常は非常に重要であると思う。
食事は生活のルーチンであるが、そこに回数制限があると認識した時、食道楽の一歩が始まるような気する。
「類は友を呼ぶ」ではないが、周りには「食」にこだわる人が多い。仕事関係でも食べる事に関して貪欲な人がおり、何故か?と聞くと
食事の回数には限度があるから
食べる物にはこだわる
との答え。最初に聞いた時には「?」という感じであったが、よくよく考えてみれば、死ぬまで相当な回数なるももの制限があることには間違いはない。今日一緒に食事をした友人と話したもこの話に納得していた模様。目的にもよるが、誰かに会いう時「では、食事でもしながら」と言った具合に概ね食事がついてまわる。さらにそこでの食事が美味しければ、話が弾むことも多い。またBlogやWebの旅行記など、食事の話が出てくれると、やはり面白い。とすると、やはり「食事」という日常は非常に重要であると思う。
食事は生活のルーチンであるが、そこに回数制限があると認識した時、食道楽の一歩が始まるような気する。
コメント