ディープインパクト2
2006年5月9日 日常昨日の発表になるのだが、昨年の3冠馬で、今年も天皇賞・春を圧勝したディープインパクト号が、宝塚記念を走り、10月に行われる世界最高峰レース・凱旋門賞(フランス)に出走することが明らかになった。いよいよ、現役最強馬、もしかしたら過去の名馬を含めても日本最強馬が、世界に挑む時が来たといったところか。
判官びいきというか、やっかんでいる人たちも多くいるとは思うが、ここは素直にディープを応援するべきではないかと思う。ディープクラスの馬は、この先10年単位で出てくることがないと考えると、やっかんでいるヒマはない。フランスで、欧州勢をぶっ倒しておいて、JCで返り討ちに合わせるというシナリオが最高なんだが、難しいかな。
判官びいきというか、やっかんでいる人たちも多くいるとは思うが、ここは素直にディープを応援するべきではないかと思う。ディープクラスの馬は、この先10年単位で出てくることがないと考えると、やっかんでいるヒマはない。フランスで、欧州勢をぶっ倒しておいて、JCで返り討ちに合わせるというシナリオが最高なんだが、難しいかな。
弱いのだよね。大好きで目に入ると買ってしまう。
そもそも、うちの母親の好みが和風が多く、どちらかというと料理も昔から和食ベース。お菓子もチョコレートとかケーキより煎餅、芋けんぴばかり。普通は大人になると逆に走るのだが、食事もお菓子も『和』の方が口に合う
その昔は、ポテトチップスとかそういった、いかにもジャンクなお菓子や食べ物ばかりを食べていたが、最近は、この手ばかり。やはり趣向というのは、確実に変わるということだな。
そもそも、うちの母親の好みが和風が多く、どちらかというと料理も昔から和食ベース。お菓子もチョコレートとかケーキより煎餅、芋けんぴばかり。普通は大人になると逆に走るのだが、食事もお菓子も『和』の方が口に合う
その昔は、ポテトチップスとかそういった、いかにもジャンクなお菓子や食べ物ばかりを食べていたが、最近は、この手ばかり。やはり趣向というのは、確実に変わるということだな。
観戦仲間と、どういういきさつか忘れたが「昨今のblogのあり方」みたいな話となった。この話は何度か、このblogにも書いたのだが、やはり観戦仲間も
最近、「自分かわいそう」的な日記を
書いている奴が多すぎ
とのことで、私と同意見。ちなみに、この方はパソコン通信時代から始めており、blogに限らず、昨今、蔓延っているインターネットのモラルの低下を嘆いている人のうちの一人でもある。
blog(日記)であるから、他人に迷惑かけないものであれば、何を書いても自由。もちろん、これが前提。ただ、時系列にずっと追っていくと、結局は「自分かわいそう」の文章を綴りつづけて、観ている人に、単に「大変だね」「がんばってね」と言われたいのではないかと勘ぐってしまうこともある。さらに、もっと悪い状態だと、それに噛み付いた人とつまらぬ喧嘩になって「自分、もっとかわいそう」という悪循環を繰り返したりもする。
ちょっと立ち止まって考えてみた方が
いい時期ではないかと最近、思う。
観戦仲間は、そもそもWebで何かを表現するというのは「ちょっと耳より情報」的な事を書くのが王道ではないか。という。そう思う。結果として、情報のボーダレスが確立している訳で、あえて後ろ向きな事を書き続ける必要性は、ないのではないかと思う。健全という言葉を使うのは、あまり気が進まないが、他人の話で落ちていく話ばかり聞いていくと、そのうち辟易としてくるのと同じで、仮に世の中のblogがそんなのばっかりだったら、すぐに崩壊するメディアになってしまうだろう。
その昔、blogなどなかった頃は、ある程度の知識がないと、インターネット上に自分を表現する方法が、ほとんどなかった。しかし今は、誰でも時間さえあれば、簡単にそれができてしまう。誰でもできるということは、残念ながらモラルも必然的に下がるということにも繋がる。まだまだインターネットライフが成熟するには時間がかかるという事である。
最近、「自分かわいそう」的な日記を
書いている奴が多すぎ
とのことで、私と同意見。ちなみに、この方はパソコン通信時代から始めており、blogに限らず、昨今、蔓延っているインターネットのモラルの低下を嘆いている人のうちの一人でもある。
blog(日記)であるから、他人に迷惑かけないものであれば、何を書いても自由。もちろん、これが前提。ただ、時系列にずっと追っていくと、結局は「自分かわいそう」の文章を綴りつづけて、観ている人に、単に「大変だね」「がんばってね」と言われたいのではないかと勘ぐってしまうこともある。さらに、もっと悪い状態だと、それに噛み付いた人とつまらぬ喧嘩になって「自分、もっとかわいそう」という悪循環を繰り返したりもする。
ちょっと立ち止まって考えてみた方が
いい時期ではないかと最近、思う。
観戦仲間は、そもそもWebで何かを表現するというのは「ちょっと耳より情報」的な事を書くのが王道ではないか。という。そう思う。結果として、情報のボーダレスが確立している訳で、あえて後ろ向きな事を書き続ける必要性は、ないのではないかと思う。健全という言葉を使うのは、あまり気が進まないが、他人の話で落ちていく話ばかり聞いていくと、そのうち辟易としてくるのと同じで、仮に世の中のblogがそんなのばっかりだったら、すぐに崩壊するメディアになってしまうだろう。
その昔、blogなどなかった頃は、ある程度の知識がないと、インターネット上に自分を表現する方法が、ほとんどなかった。しかし今は、誰でも時間さえあれば、簡単にそれができてしまう。誰でもできるということは、残念ながらモラルも必然的に下がるということにも繋がる。まだまだインターネットライフが成熟するには時間がかかるという事である。
インターネットは反民主主義
2006年5月6日 日常 コメント (2)最近はSNSが大流行状態で、本来の「不特定多数の人へ公開する情報」というより「ある特定の人達」向けに情報を配信している傾向が多いように思える。「いつでも、どこでも、誰でも」の1つが抜け落ちたという事。もちろん過去にもPasswordがないと入れないサイトやチャットがあったのが、現在のSNSの流行ぶりを考えれば、軽い閉塞感のようなものを最近感じがある。
何度か書いた事があるが、インターネットの普及のおかげで、情報の伝達が飛躍的にスピードアップしたことは間違いないし、事象によっては、物理的な距離も取っ払われ、新たなビジネスモデルがどんどん世に出てきて、ショッピングはもとより、株も馬券もインターネット内で全て話しが済んでしまうといっても過言ではない。個人情報流出などの問題もあるにはあるが、概ね迎合されていると考えてよい。
ところが、最近読んだ雑誌(AERAだったかな)によれば、前述のようなことは「功」とした上で、逆に「インターネットは反民主主義」とかなり強烈な記事が掲載されたのを目にした。具体的にSNSという所までは、言及されていなかったが、インターネットの使われ方の顕著な例として
ある一定の趣味であったり、思想であったりと
属性や因子が同じ傾向の人が集まる傾向が強い。
となれば、同じ考えの人が集まり、そのコミュニティ/サイトで集まる人で出来上がった話や意見が「まんせー」状態となり、「別なところのやつらの言っている事なんておかしい」という事になりがち。これは全体主義ではないか
という事。かなり乱暴な論調ではあり、話半分くらいにしか読んでいないが、全体主義はともかくとしても、傾向としては「まぁ、あながち間違いでもないな」と感じる。無論、そんなの発信者の自由ではないかという事なのだが、昨今のインターネットライフにおいては微妙な違和感を感じずにはいられない。
思想や考え方は人によって、時代によって違うという事を有きで、どうも自分と違う意見を言う人を「敵」だと考えてしまうケースは多々ある。でも、実際に、その人に会って話しをすれば「イメージと違う」という事はよくある。ただインターネットの場合は、そういった事が現れにくい。ここは重要なポイント。忘れがちな人が多いから、平気で誹謗中傷を書く人が多発するのではないかな。そもそも「良い」と「悪い」という二極限で考えるということが 間違えだという事を頭の隅においておいた方が、絶対に良いのではなかろうか。
何度か書いた事があるが、インターネットの普及のおかげで、情報の伝達が飛躍的にスピードアップしたことは間違いないし、事象によっては、物理的な距離も取っ払われ、新たなビジネスモデルがどんどん世に出てきて、ショッピングはもとより、株も馬券もインターネット内で全て話しが済んでしまうといっても過言ではない。個人情報流出などの問題もあるにはあるが、概ね迎合されていると考えてよい。
ところが、最近読んだ雑誌(AERAだったかな)によれば、前述のようなことは「功」とした上で、逆に「インターネットは反民主主義」とかなり強烈な記事が掲載されたのを目にした。具体的にSNSという所までは、言及されていなかったが、インターネットの使われ方の顕著な例として
ある一定の趣味であったり、思想であったりと
属性や因子が同じ傾向の人が集まる傾向が強い。
となれば、同じ考えの人が集まり、そのコミュニティ/サイトで集まる人で出来上がった話や意見が「まんせー」状態となり、「別なところのやつらの言っている事なんておかしい」という事になりがち。これは全体主義ではないか
という事。かなり乱暴な論調ではあり、話半分くらいにしか読んでいないが、全体主義はともかくとしても、傾向としては「まぁ、あながち間違いでもないな」と感じる。無論、そんなの発信者の自由ではないかという事なのだが、昨今のインターネットライフにおいては微妙な違和感を感じずにはいられない。
思想や考え方は人によって、時代によって違うという事を有きで、どうも自分と違う意見を言う人を「敵」だと考えてしまうケースは多々ある。でも、実際に、その人に会って話しをすれば「イメージと違う」という事はよくある。ただインターネットの場合は、そういった事が現れにくい。ここは重要なポイント。忘れがちな人が多いから、平気で誹謗中傷を書く人が多発するのではないかな。そもそも「良い」と「悪い」という二極限で考えるということが 間違えだという事を頭の隅においておいた方が、絶対に良いのではなかろうか。
町田経理専門学校 破産手続き開始決定受ける
2006年5月5日 日常http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/2093.html
母校が飛びました。
> 93年頃には校舎を1号館から7号館まで設置して、
> 総合ビジネス学科、ビジネス情報処理学科、国際ビジネス学科、
> 税理士専攻学科など計6学科を有し、ピーク時の93年3月期には
> 年収入高約23億8000万円を計上していた。
93年だと思いっきり在学中ですな。この学校には税理士専攻学科で2年、会計研究科で2年、都合4年通学。実はこの時代の友人というのは、皆無に等しく、つい最近、SNS経由で当時の友達よりメールをもらった程度。就職も自分で見つけて入社したし、強いていえば、簿記1級の基礎知識はこの学校だったかなというくらいか。ちなみに7号館なんていっているが、雑居ビルの中にいくつか教室があるだけ。
経理の専門学校が、経営破綻というのは、どういうことだ?
母校が飛びました。
> 93年頃には校舎を1号館から7号館まで設置して、
> 総合ビジネス学科、ビジネス情報処理学科、国際ビジネス学科、
> 税理士専攻学科など計6学科を有し、ピーク時の93年3月期には
> 年収入高約23億8000万円を計上していた。
93年だと思いっきり在学中ですな。この学校には税理士専攻学科で2年、会計研究科で2年、都合4年通学。実はこの時代の友人というのは、皆無に等しく、つい最近、SNS経由で当時の友達よりメールをもらった程度。就職も自分で見つけて入社したし、強いていえば、簿記1級の基礎知識はこの学校だったかなというくらいか。ちなみに7号館なんていっているが、雑居ビルの中にいくつか教室があるだけ。
経理の専門学校が、経営破綻というのは、どういうことだ?
昨日の話になるのだが、鎌ヶ谷で日ハム対湘南の試合を見た後に、日ハム森本選手の実家の焼肉屋に行く。ここの主人は、森本選手のお父さん。実に温厚な方で、日ハム以外の野球の話も快く聞いてくれ、また意見もしてくれる。焼肉も美味しいが、ここのお父さんと話のが目的で行くという人も多い。森本選手のお父さんに限らず何より野球の話はいつまでしていても尽きないし、楽しい。
「そもそも野球というのは、失敗のスポーツである」という話となる。イチロー選手がいくらスゴイといっても4割を打ったことがない。どんなに打ってても、.380くらいがが最高だったと記憶している。逆を言えば、.620は失敗しているという事。実はここが野球の面白い所。バッターは打席で、四死球・犠打を除けば、ほとんどの場合、安打を狙ってバッターボックスに入っている。しかし結果としては、3回に1回でも打ては一流と認識される。つまり10割を目指して3回結果を出せば、一流という事だ。といっても3回に1回以上(つまり.333以上)の打率をたたき出す人はというのは、プロ野球界でも毎年、両リーグで5人いるかいないか。つまりトップレベルを.333として、下はだいたい.250くらいからの話をしているのが野球の打棒ではなかろうか。また投手も然り。投手は絶対に点は取られないというつもりでマウンドにいるが、年間を通じてみれば、防御率が3点を切れば一流。1試合で3点以内に抑えていれば、よいという事。
数日前にここで書いた競馬の話とまったく同じ。絶対に打てるバッターや、絶対に抑えられる投手がいた場合、その時点で野球は終わってしまう。バッターなら、.250〜.333程度、投手なら1試合に3点以内に抑えれば、上出来であるのなら、完璧を目指していても、野球というスポーツは、これくらいの「幅」で話が済んでいるという事になる。「3割打者が、今日は3打席で凡退しているから、ここは打つだろう」というのは実況や解説でよく聞く。こういったストーリーは野球が好きな人が誰でも思い描くこと。これが出来るか出来なかで、面白さというのはだいぶ変わってくるだろう。そして、何より数字に拘束されない劇的なプレイが出る事を期待して、野球好きは球場に通っている。そう考えると、実は打率や打棒というの目安にはなるが、それ以上のものを常に期待しているという事も間違いない。こんなことを書いていながら、見ている方も、やはり10割、0点に抑えるくらいの感覚なんだろうとも逆に思ったりもする。
「そもそも野球というのは、失敗のスポーツである」という話となる。イチロー選手がいくらスゴイといっても4割を打ったことがない。どんなに打ってても、.380くらいがが最高だったと記憶している。逆を言えば、.620は失敗しているという事。実はここが野球の面白い所。バッターは打席で、四死球・犠打を除けば、ほとんどの場合、安打を狙ってバッターボックスに入っている。しかし結果としては、3回に1回でも打ては一流と認識される。つまり10割を目指して3回結果を出せば、一流という事だ。といっても3回に1回以上(つまり.333以上)の打率をたたき出す人はというのは、プロ野球界でも毎年、両リーグで5人いるかいないか。つまりトップレベルを.333として、下はだいたい.250くらいからの話をしているのが野球の打棒ではなかろうか。また投手も然り。投手は絶対に点は取られないというつもりでマウンドにいるが、年間を通じてみれば、防御率が3点を切れば一流。1試合で3点以内に抑えていれば、よいという事。
数日前にここで書いた競馬の話とまったく同じ。絶対に打てるバッターや、絶対に抑えられる投手がいた場合、その時点で野球は終わってしまう。バッターなら、.250〜.333程度、投手なら1試合に3点以内に抑えれば、上出来であるのなら、完璧を目指していても、野球というスポーツは、これくらいの「幅」で話が済んでいるという事になる。「3割打者が、今日は3打席で凡退しているから、ここは打つだろう」というのは実況や解説でよく聞く。こういったストーリーは野球が好きな人が誰でも思い描くこと。これが出来るか出来なかで、面白さというのはだいぶ変わってくるだろう。そして、何より数字に拘束されない劇的なプレイが出る事を期待して、野球好きは球場に通っている。そう考えると、実は打率や打棒というの目安にはなるが、それ以上のものを常に期待しているという事も間違いない。こんなことを書いていながら、見ている方も、やはり10割、0点に抑えるくらいの感覚なんだろうとも逆に思ったりもする。
数日前、医者の友人と食事をする機会があり、色々と医療業界の話を聞く。やはり「医療事故」という話になったのだが、中々、報道されている限りのことでは分からない事がたくさんあるらしい。最近、九州の離島で、産婦人科医がいなくなったという報道を耳にした。ニュースを聞いた人の大半は「志がある人が行くべきだ」みたいな事を言うが、友人曰く、そういう理想には程遠いのが現状だそうだ。理由は、産婦人科医は、母子と2倍の医療事故の危険性が高いから。離島では、さらに条件が悪くなるのは当然であるの素人でも分かる。
少し前の裁判で、綿菓子を食べていた子供が転倒し、割り箸が口内から脳へ突き刺さった子供が病院に運ばれる。運悪く、病院には専門外の医師しかおらず、十分な対応が出来ずに残念に結果となった。裁判は対応した医師に「無罪」の判決。
これだけ聞くと何故、無罪になったのか?いう事になるが、この真相としては、医師が、運び込まれた子供に対して最高のパフォーマンスの医療を提供できなかった責任はある。ただ、結果として、子供の死に至ったかどうかは別の話という事。友人の話を聞くまでは「医師として最高のパフォーマンスをを提供できなかったから、死亡した」という事だと思っていたのだが、詳細は不明だが、残念ながら、子供が病院に運び込まれた時点で、助かる見込みが、ほとんどなかったというのが、判決の理由らしい。判決だけ聞けば、分からない話だが、真相を聞くと納得できる部分が多分にある。
さらに友人は、医師も人間であるとも言う。つまりは「人間である以上、残念ながらミスは犯してしまう」という事。もちろん、そのミスを最大限になくす努力はするという前提での話。ところが、病院にかかる患者やその周りは100%助かるくらいのつもりで託しており、残念な結果になれば、医師が槍玉にあげられることもあるそうだ。
この話は、以前にも書いたが、残念ながら、ミスはありうると考えるべき。こちらとしても、ある程度のリスクは覚悟しておかなければならないという事。そして、残念な結果になったとすれば、もう運がなかったというしかないであろう。最後に友人が一言。「医者が殺したという言葉が嫌い」まったくその通り。
少し前の裁判で、綿菓子を食べていた子供が転倒し、割り箸が口内から脳へ突き刺さった子供が病院に運ばれる。運悪く、病院には専門外の医師しかおらず、十分な対応が出来ずに残念に結果となった。裁判は対応した医師に「無罪」の判決。
これだけ聞くと何故、無罪になったのか?いう事になるが、この真相としては、医師が、運び込まれた子供に対して最高のパフォーマンスの医療を提供できなかった責任はある。ただ、結果として、子供の死に至ったかどうかは別の話という事。友人の話を聞くまでは「医師として最高のパフォーマンスをを提供できなかったから、死亡した」という事だと思っていたのだが、詳細は不明だが、残念ながら、子供が病院に運び込まれた時点で、助かる見込みが、ほとんどなかったというのが、判決の理由らしい。判決だけ聞けば、分からない話だが、真相を聞くと納得できる部分が多分にある。
さらに友人は、医師も人間であるとも言う。つまりは「人間である以上、残念ながらミスは犯してしまう」という事。もちろん、そのミスを最大限になくす努力はするという前提での話。ところが、病院にかかる患者やその周りは100%助かるくらいのつもりで託しており、残念な結果になれば、医師が槍玉にあげられることもあるそうだ。
この話は、以前にも書いたが、残念ながら、ミスはありうると考えるべき。こちらとしても、ある程度のリスクは覚悟しておかなければならないという事。そして、残念な結果になったとすれば、もう運がなかったというしかないであろう。最後に友人が一言。「医者が殺したという言葉が嫌い」まったくその通り。
一昨日の日記で、ディープインパクトのことを書いたが、昨年の有馬記念で、ディープがハーツクライに負けた時に、ルメール騎手と同馬にブーイングしたファンがいたそうだ。おそらくディープ=競馬と思っているライトファンだと思われるが、ブーイングをそのもの自体を否定する行為として考えた場合、これは、やはり頂けない。競馬で「必ずそうなる」では、話が終わってしまうという事になるからに他ならないからだ。逆の言い方をすれば、ハーツクライが勝ったことによって、より多くの選択肢が生まれたこととなる。現にハーツクライは、3月のドバイシーマクラッシック(国際G1)を圧勝し、有馬記念がフロックでない事を証明したばかりか、世界的にも一流馬になった事も証明した。さらには、海外でディープとハーツクライが対決という新たなシナリオが出てきたのも事実。ディープが勝つであろうというと予想あるいは応援して、結果的に残念な結果となってしまったとしても、それはそれとして、考えるべきできないかと思う。
何をするにしても、ある程度のシナリオを書くのは当然である。そして、それらは、なるべくいい方に考えていくのも自然。ところが「このシナリオしかありえない」的な人と話していると、どうも薄っぺらく、話に厚みがない。多層性がないから、話していてもつまらないし、あるとすれば、自分の脆い理論を打ち砕かれそうななると、相手の揚げ足をとるような行為に出る。これでは、話にならない。
シナリオを書くのは当然だとして、それは最初に「たたき台」くらいの方が良いのではないかと思う。例えそれが、自ら打ち立てた素晴らしいシナリオであったとしても必ず穴はあるはずで、それらを「見て見ぬふり」をするのでは、結果的には陳腐なものになってしまうだろう。5分前行動ではないが、ある程度はバッファを持つことこそ多層性の受け入れ易い土壌となるのではないだろうか。
何をするにしても、ある程度のシナリオを書くのは当然である。そして、それらは、なるべくいい方に考えていくのも自然。ところが「このシナリオしかありえない」的な人と話していると、どうも薄っぺらく、話に厚みがない。多層性がないから、話していてもつまらないし、あるとすれば、自分の脆い理論を打ち砕かれそうななると、相手の揚げ足をとるような行為に出る。これでは、話にならない。
シナリオを書くのは当然だとして、それは最初に「たたき台」くらいの方が良いのではないかと思う。例えそれが、自ら打ち立てた素晴らしいシナリオであったとしても必ず穴はあるはずで、それらを「見て見ぬふり」をするのでは、結果的には陳腐なものになってしまうだろう。5分前行動ではないが、ある程度はバッファを持つことこそ多層性の受け入れ易い土壌となるのではないだろうか。
ここの所、叩かれまくっている消費者金融業界。アイフルの営業停止に端を発して、グレーゾーンの撤廃、法改正など激変している。どうも裏で誰かが、本気で、この業界を潰してやろうと画策しているとしか思えない展開だ。新聞、雑誌などメディアの報道を見ていると、口を揃えて「暴利をむさぼっている」的なコメントで叩くまくる。唯一、ウイークリー読売だけが中立な記事の書き方だというように感じる。そもそも、29.2%という出資法の上限金利が高いかどうかというのは、まったく議論されていない。つまりは、借りていない全然関係ない人が、目分量で「高い」と言い続けているだけである。
よく考えてみる。例えば、バブル期に住専でローンを組んだ人は、自宅を担保にとられて10%前後ローンを組んでいる。これは高くないのだろうか?また、暴利、暴利というが、銀行は普通預金利息を0.001%程度で、消費者金融と同じ商品(多目的フリーローン)を15%〜20%で貸し付けている。これは暴利ではないのだろうか?さらに銀行の場合は、経営が立ち行かなくなると、公的資金が導入され救済される。これでも、消費者金融は銀行よりダーティーだと言えるのか?銀行が悪いという話でなく、検証もしないで、ただイメージだけで「消費者金融諸悪論」というのは正しいのだろうか。岩手の貸金業協会は、上限金利が引き下げになると、経営が立ち行かなくなることから、解散をするとの報道がされた。イメージだけで議論が進み法改正のおかげでメシが食えなくなる人が出てくる訳だ。魔女狩り的な話で、そこまでやられないと行けないのかと思う。そして何より、借りた人間の契約義務である
借りたら返す
というリソースの部分が何も触れられていない。ここから話を始めるのが筋だろう。しかも「弱者救済」と言い関係ない人達が、よってたかって潰そうとしている。嫌いは嫌いで結構。ただ、それだけの理由で、消費者金融業界を批判をするのは、いかがかと思う。それに、法令を遵守した貸金業社と闇金と区別もしないで、ごった煮状態で論ずるのも、大きな間違え。
上限金利の引き下げというのは、金融庁が自己破産の防止と大義名分として謳っているが、結果として、貸し手が金利を下げれば審査をきつくするのは当然。然るに今まで貸していた顧客に対して、貸し出しが出来なくなるのだから、当然、あふれてくる。その人達は、闇へ闇へと消えて行き、今よりもっと酷いことになるのは、業界内の専らの推測。有識者懇談会云々と言っているが、実際、今、カネがない人が1人でもいて「消費者金融がないと死んでしまう」くらい有識者を入れるべきではないか?
よく考えてみる。例えば、バブル期に住専でローンを組んだ人は、自宅を担保にとられて10%前後ローンを組んでいる。これは高くないのだろうか?また、暴利、暴利というが、銀行は普通預金利息を0.001%程度で、消費者金融と同じ商品(多目的フリーローン)を15%〜20%で貸し付けている。これは暴利ではないのだろうか?さらに銀行の場合は、経営が立ち行かなくなると、公的資金が導入され救済される。これでも、消費者金融は銀行よりダーティーだと言えるのか?銀行が悪いという話でなく、検証もしないで、ただイメージだけで「消費者金融諸悪論」というのは正しいのだろうか。岩手の貸金業協会は、上限金利が引き下げになると、経営が立ち行かなくなることから、解散をするとの報道がされた。イメージだけで議論が進み法改正のおかげでメシが食えなくなる人が出てくる訳だ。魔女狩り的な話で、そこまでやられないと行けないのかと思う。そして何より、借りた人間の契約義務である
借りたら返す
というリソースの部分が何も触れられていない。ここから話を始めるのが筋だろう。しかも「弱者救済」と言い関係ない人達が、よってたかって潰そうとしている。嫌いは嫌いで結構。ただ、それだけの理由で、消費者金融業界を批判をするのは、いかがかと思う。それに、法令を遵守した貸金業社と闇金と区別もしないで、ごった煮状態で論ずるのも、大きな間違え。
上限金利の引き下げというのは、金融庁が自己破産の防止と大義名分として謳っているが、結果として、貸し手が金利を下げれば審査をきつくするのは当然。然るに今まで貸していた顧客に対して、貸し出しが出来なくなるのだから、当然、あふれてくる。その人達は、闇へ闇へと消えて行き、今よりもっと酷いことになるのは、業界内の専らの推測。有識者懇談会云々と言っているが、実際、今、カネがない人が1人でもいて「消費者金融がないと死んでしまう」くらい有識者を入れるべきではないか?
天皇賞のディープは今までのレースの中で一番強かった。かつて孤高のステイヤー・ライスシャワーが残り800mで先頭に立ち、雪崩こんだ戦法と同じ。しかしライスはハナ差でステージチャンプを凌いだが、ディープはリンカーンに詰められ事もなく一方的に突き放し、逆に最後は武騎手が抑えてかつ天皇賞レコードの圧勝。しかも上がり3Fが33.5だから残り200mのラップが全て11秒という事になる。
レース後、武騎手のインタビューで『世界にディープより強い馬がいるのかと思う』と発言。本当にそう思う。古馬で世界的なビックネームと言えば、去年、英国のインターナショナルSでゼンノロブロイを、今年のドバイワールドカップでカネヒキリを破ったエレクトロキューショニスト。昨年のアイリッシュダービー、凱旋門賞を制したハリケーンラン。そして有馬記念でディープを負かし、ドバイシーマクラッシックを圧勝したハーツクライくらいか。
とにかくディープは10年単位でも出てくるかどうか分からないクラスの馬であるからアクシデントなく行ってもらいたい。ダビスタでもウイニングポストでもない本当の日本調教馬が海外のビッグレースを勝つ日は近い。
土曜日に『競馬予想TV』で水上学氏が言っていたのだがディープの母、ウインドインハーヘアは競争馬時代に放牧中に妊娠し、そのまま誰も気がつかずに帰厩、重賞制覇した事があるそうだ。父、サンデーサイレンスは言うまでもないが、ディープの強さは母の強靱さも引き継いだのだろうな。
レース後、武騎手のインタビューで『世界にディープより強い馬がいるのかと思う』と発言。本当にそう思う。古馬で世界的なビックネームと言えば、去年、英国のインターナショナルSでゼンノロブロイを、今年のドバイワールドカップでカネヒキリを破ったエレクトロキューショニスト。昨年のアイリッシュダービー、凱旋門賞を制したハリケーンラン。そして有馬記念でディープを負かし、ドバイシーマクラッシックを圧勝したハーツクライくらいか。
とにかくディープは10年単位でも出てくるかどうか分からないクラスの馬であるからアクシデントなく行ってもらいたい。ダビスタでもウイニングポストでもない本当の日本調教馬が海外のビッグレースを勝つ日は近い。
土曜日に『競馬予想TV』で水上学氏が言っていたのだがディープの母、ウインドインハーヘアは競争馬時代に放牧中に妊娠し、そのまま誰も気がつかずに帰厩、重賞制覇した事があるそうだ。父、サンデーサイレンスは言うまでもないが、ディープの強さは母の強靱さも引き継いだのだろうな。
友人が上京。一緒に夕食を食べることとする。この友人も自分も昔から、食べることに関しては、一生懸命になる。年に何回かは、一緒に食事をするのだが、決して会ってから「さて、何食べようか」という事にはならない。予めお互いで会うという時は「どこで何を食べるか」という事は決定している。逆を言うと会うというより一緒に食事をするという方が、正しい表現かもしれない。
「類は友を呼ぶ」ではないが、周りには「食」にこだわる人が多い。仕事関係でも食べる事に関して貪欲な人がおり、何故か?と聞くと
食事の回数には限度があるから
食べる物にはこだわる
との答え。最初に聞いた時には「?」という感じであったが、よくよく考えてみれば、死ぬまで相当な回数なるももの制限があることには間違いはない。今日一緒に食事をした友人と話したもこの話に納得していた模様。目的にもよるが、誰かに会いう時「では、食事でもしながら」と言った具合に概ね食事がついてまわる。さらにそこでの食事が美味しければ、話が弾むことも多い。またBlogやWebの旅行記など、食事の話が出てくれると、やはり面白い。とすると、やはり「食事」という日常は非常に重要であると思う。
食事は生活のルーチンであるが、そこに回数制限があると認識した時、食道楽の一歩が始まるような気する。
「類は友を呼ぶ」ではないが、周りには「食」にこだわる人が多い。仕事関係でも食べる事に関して貪欲な人がおり、何故か?と聞くと
食事の回数には限度があるから
食べる物にはこだわる
との答え。最初に聞いた時には「?」という感じであったが、よくよく考えてみれば、死ぬまで相当な回数なるももの制限があることには間違いはない。今日一緒に食事をした友人と話したもこの話に納得していた模様。目的にもよるが、誰かに会いう時「では、食事でもしながら」と言った具合に概ね食事がついてまわる。さらにそこでの食事が美味しければ、話が弾むことも多い。またBlogやWebの旅行記など、食事の話が出てくれると、やはり面白い。とすると、やはり「食事」という日常は非常に重要であると思う。
食事は生活のルーチンであるが、そこに回数制限があると認識した時、食道楽の一歩が始まるような気する。
今年、大学を卒業し新社会人なった友人から、配属先が決定したとのメールが到着。本人が希望していた部署に行ったかどうか定かではないが、これで本格的に仕事が始るという事になった訳だ。
自分の場合、商業高校→専門学校4年というかなり変則的な学業を経て入社しているので、経理以外で就職する気はまるでなかったのを覚えている。おかげで8ヶ月もフラフラしていたのだが、今思えば、8ヶ月くらいどうってことなかったと言う事にでもなるかな。こういうと格好がいいが、学歴がない分、技術で売るしかないので、必然的に就職口もせまく、また経理のみという事だと、さらに狭まったという事もある。ともあれ、8ヶ月間の無駄な時間のおかげで、希望の仕事につけた訳で、今でもその職で給与をもらっているのだから申し分はない。ただ、高校時代、専門学校時代の友人に話を聞くと、ほとんど経理という職に就いている人はいない。まったく関係ない仕事に就いている友人がほとんどだ。逆に、同じ部の同僚に話を聞くと「経理にだけはなりたくなかった」という意見もある。ようは所属部署などというのは、かなり温度差が違う者達の集まりであるともいえる。
サラリーマンを11年目になり、何度も新入社員達が、色々な部署に配属されているのを見ているが、ほとんどのケースが希望部署に行くという事ない。だいたいは人事担当者が、短い研修で、機械的に決めているケースが多い。新入社員としては「ちゃんと選考してくれ」と言いたい所だと思うが、残念ながら、会社は生き物だから、そんな時間はない。会社の規模にもよるが10人中1人〜2人が、その配属部署で成功してくれれば・・・という事もよく聞かれる。3年、5年と経てばだいたいどこの会社もそんなものである。だが、大事なのは希望部署ではない所に配属された場合であっても、腐らず仕事をこなすという事がプロフェッショナルとしての第一歩。配属されて早々に「俺、向いていないんだよな」などというのは論外。仮にその後、希望部署に移動になったとしても、いい仕事は出来ない。これは断言できる。理不尽な人事だなぁと思っても、会社というヒエラルキーの中で生きて行くには、受け入れなければならない事実であるという事を認識するべき。社会というのもそういうもの。組織に生きるという事は、自らの意見で、人事が「どうこうするような物ではない」という事も認識するべきではないかと思う。すなわち、会社より与えられた仕事をこなし、周りに認めてもらい、初めて自分の希望を発言する権利が発生する。そこからスタートするという事である。
と偉そうなことを言っているが、どんな業種であろうと、どんな職務であろうと、ともかく頑張って欲しい。原点回帰ではないが、じっと堪えれて仕事をすれば、そのうちきっといい事はある。何らかの事情で、会社を去らなければならなくなったとしても、自分の「がんばった財産」は残る訳で、それはコツコツ貯めて行く事をどこか頭の片隅に置いてほしいもの。会社というのは、厳しい所ではあるが、実は作りは意外と単純なケースが多い。単純だから厳しいとも言える。それゆえに難しいことが多い。悪い言い方で「組織に隷属する」という事は、難しいことを多くクリアした人が、発言権を持つという事。それが何年後になるかというのは、その人次第。苦労して就職活動した皆さん、決して「5月病」などという言葉に惑わされないように。
自分の場合、商業高校→専門学校4年というかなり変則的な学業を経て入社しているので、経理以外で就職する気はまるでなかったのを覚えている。おかげで8ヶ月もフラフラしていたのだが、今思えば、8ヶ月くらいどうってことなかったと言う事にでもなるかな。こういうと格好がいいが、学歴がない分、技術で売るしかないので、必然的に就職口もせまく、また経理のみという事だと、さらに狭まったという事もある。ともあれ、8ヶ月間の無駄な時間のおかげで、希望の仕事につけた訳で、今でもその職で給与をもらっているのだから申し分はない。ただ、高校時代、専門学校時代の友人に話を聞くと、ほとんど経理という職に就いている人はいない。まったく関係ない仕事に就いている友人がほとんどだ。逆に、同じ部の同僚に話を聞くと「経理にだけはなりたくなかった」という意見もある。ようは所属部署などというのは、かなり温度差が違う者達の集まりであるともいえる。
サラリーマンを11年目になり、何度も新入社員達が、色々な部署に配属されているのを見ているが、ほとんどのケースが希望部署に行くという事ない。だいたいは人事担当者が、短い研修で、機械的に決めているケースが多い。新入社員としては「ちゃんと選考してくれ」と言いたい所だと思うが、残念ながら、会社は生き物だから、そんな時間はない。会社の規模にもよるが10人中1人〜2人が、その配属部署で成功してくれれば・・・という事もよく聞かれる。3年、5年と経てばだいたいどこの会社もそんなものである。だが、大事なのは希望部署ではない所に配属された場合であっても、腐らず仕事をこなすという事がプロフェッショナルとしての第一歩。配属されて早々に「俺、向いていないんだよな」などというのは論外。仮にその後、希望部署に移動になったとしても、いい仕事は出来ない。これは断言できる。理不尽な人事だなぁと思っても、会社というヒエラルキーの中で生きて行くには、受け入れなければならない事実であるという事を認識するべき。社会というのもそういうもの。組織に生きるという事は、自らの意見で、人事が「どうこうするような物ではない」という事も認識するべきではないかと思う。すなわち、会社より与えられた仕事をこなし、周りに認めてもらい、初めて自分の希望を発言する権利が発生する。そこからスタートするという事である。
と偉そうなことを言っているが、どんな業種であろうと、どんな職務であろうと、ともかく頑張って欲しい。原点回帰ではないが、じっと堪えれて仕事をすれば、そのうちきっといい事はある。何らかの事情で、会社を去らなければならなくなったとしても、自分の「がんばった財産」は残る訳で、それはコツコツ貯めて行く事をどこか頭の片隅に置いてほしいもの。会社というのは、厳しい所ではあるが、実は作りは意外と単純なケースが多い。単純だから厳しいとも言える。それゆえに難しいことが多い。悪い言い方で「組織に隷属する」という事は、難しいことを多くクリアした人が、発言権を持つという事。それが何年後になるかというのは、その人次第。苦労して就職活動した皆さん、決して「5月病」などという言葉に惑わされないように。
またしてもSAPIOの記事より。ずっと前にも、このタイトルで書いた覚えがある。どちらかという、戦闘意欲バリバリの女性が、正気とは思えない発言を繰り返しているようにも思えるジェンダーフリー論。看護婦が看護師と呼ぶようになったり、スチュワーデスがキャビンアテンダントと呼ばれるは、時代として理解するが、記事によれば「桃太郎は男女差別であるから桃子にしろ」とまでとの論調すらある。だったら、桃太郎という個体のキャラクターは尊重されないのか。と思う。
例で考えてみる。
同世代の男女4人が、川原でバーベキューに行くこととなった。現地の駐車場から、コンロ、鉄板やら買い出しの荷物やらを持って川原に向かう。火をおこして、材料を揃える。一通り食べ終わり、鉄板、皿などを洗って帰路につく。
−− 仕事分担 −−
・男が駐車場から重い荷物を持ち、火をおこし、最後に洗い物をする
・買出しの荷物で比較的軽そうな物を持ち、男が火をおこしている間に
調理をして、最後は男と一緒に洗い物をする。
そんなにおかしい話ではないと思うし、多くのバーベキュー好きは同じようにやっているのではないかと思う。100人に聞いても「別にヘンではない」という答えが返ってくるだろう。ところが、バリバリのジェンダーフリー論者がいた場合、「男が荷物を持つなんて誰が決めたのか」とか「女だからといって、調理をさせるのはおかしい」と主張するだろう。残念ながら、こんな人とはコミュニュケーションを図る自信がない。
上記の例は、ただ自然に、そうなったという方と見るのが普通だと思う。多分、人間の作りから言っても、女性より男性が重い荷物を持つには適していると思うし、目の前で女性が、重い荷物を持っているのを見て、見過ごすようなことがあれば、ジェンダーだ!などと言っている以前に、無条件でおかしいと思うだろう。これは考える事ではない。しかし、色々な本やら雑誌を見る限りでは、「女だからといって、男だからといって」という論調が強すぎて「思いやり」的な考え方が、すっ飛んでいるのでいないか。
弊社は外資で、この手の研修も年に1回は受けている。それが功を奏してかは分からないが、少なくても自分のいる事業所で、女性が昇進できないとか、給与格差があるという話は聞かない。そういう意味では、日本の企業に比べれば、かなり平等な会社であるとも言える。しかし、例えばある女性が職務において、女性が大きなダンボールを抱えているようなことがあれば、周りの男性の誰かが、代わりに運ぶという事は普通にある。誰もジェンダーなどと騒ぎ立てる人はいない。それが当たり前だと考えているから。
このジェンダーフリーという考え方。性別による差別があってはならないという点では理解できるが、だからといって何でもかんでも男女が平等にしてしまうというのは、良いのか?見た目で、出来ること、出来ないことというのは存在する訳で、それをすっとばしても理屈が大事なんて事は絶対にない。無論、明らかに「それは、女性だけがやる仕事ではないだろう」という会社/コミュニティが存在するのは分かる。ただ、それは外野から見ているだけであって、もしかしたら、当事者達にとっては丁度いいバランスが取れている状態であって、全然関係のない人が、とやかく言い、バランスが崩れた場合はいかがなものか。
ジェンダーフリーが全部イカンというのではない。改善するべき点は改善すべきである。しかし、このジェンダー云々を言う前に、1つ1つの事象を精査をしてからというのが前提ではなかろうか。そして、どんなに素晴らしい論拠を並びたてたところで「思いやり」であったり「信頼」を超越する論拠など絶対にない。論者はここからスタートすべきだと思う。
例で考えてみる。
同世代の男女4人が、川原でバーベキューに行くこととなった。現地の駐車場から、コンロ、鉄板やら買い出しの荷物やらを持って川原に向かう。火をおこして、材料を揃える。一通り食べ終わり、鉄板、皿などを洗って帰路につく。
−− 仕事分担 −−
・男が駐車場から重い荷物を持ち、火をおこし、最後に洗い物をする
・買出しの荷物で比較的軽そうな物を持ち、男が火をおこしている間に
調理をして、最後は男と一緒に洗い物をする。
そんなにおかしい話ではないと思うし、多くのバーベキュー好きは同じようにやっているのではないかと思う。100人に聞いても「別にヘンではない」という答えが返ってくるだろう。ところが、バリバリのジェンダーフリー論者がいた場合、「男が荷物を持つなんて誰が決めたのか」とか「女だからといって、調理をさせるのはおかしい」と主張するだろう。残念ながら、こんな人とはコミュニュケーションを図る自信がない。
上記の例は、ただ自然に、そうなったという方と見るのが普通だと思う。多分、人間の作りから言っても、女性より男性が重い荷物を持つには適していると思うし、目の前で女性が、重い荷物を持っているのを見て、見過ごすようなことがあれば、ジェンダーだ!などと言っている以前に、無条件でおかしいと思うだろう。これは考える事ではない。しかし、色々な本やら雑誌を見る限りでは、「女だからといって、男だからといって」という論調が強すぎて「思いやり」的な考え方が、すっ飛んでいるのでいないか。
弊社は外資で、この手の研修も年に1回は受けている。それが功を奏してかは分からないが、少なくても自分のいる事業所で、女性が昇進できないとか、給与格差があるという話は聞かない。そういう意味では、日本の企業に比べれば、かなり平等な会社であるとも言える。しかし、例えばある女性が職務において、女性が大きなダンボールを抱えているようなことがあれば、周りの男性の誰かが、代わりに運ぶという事は普通にある。誰もジェンダーなどと騒ぎ立てる人はいない。それが当たり前だと考えているから。
このジェンダーフリーという考え方。性別による差別があってはならないという点では理解できるが、だからといって何でもかんでも男女が平等にしてしまうというのは、良いのか?見た目で、出来ること、出来ないことというのは存在する訳で、それをすっとばしても理屈が大事なんて事は絶対にない。無論、明らかに「それは、女性だけがやる仕事ではないだろう」という会社/コミュニティが存在するのは分かる。ただ、それは外野から見ているだけであって、もしかしたら、当事者達にとっては丁度いいバランスが取れている状態であって、全然関係のない人が、とやかく言い、バランスが崩れた場合はいかがなものか。
ジェンダーフリーが全部イカンというのではない。改善するべき点は改善すべきである。しかし、このジェンダー云々を言う前に、1つ1つの事象を精査をしてからというのが前提ではなかろうか。そして、どんなに素晴らしい論拠を並びたてたところで「思いやり」であったり「信頼」を超越する論拠など絶対にない。論者はここからスタートすべきだと思う。
教育勅語
2006年4月26日例によって、偏り雑誌のSAPIOを購入。だいたい話半分くらいで読んでいるのだが、今回号にて「教育勅語」の記事が掲載されていた。この教育勅語は1890年(明治23年)10月30日に発布。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。発布の後には、日本のすべての学校に下賜(配布)されたもの。戦後においては、GHQ/SCAPにより教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことする。その後1948年(昭和23年)6月19日に、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて教育勅語は排除・失効が確認された。つまりは、現在においては、公には残っていない明治天皇の教育に関する勅語であるので、興味がなければ、まったく知らないままという事になる。
時代背景を考えた場合、前述の通り、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視されているので、消える運命であることは理解するが、色々と調べてみると、諸外国でも翻訳され高い評価を受けているという。然るに中身と運用は別という事だろう。もちろん思想はまるでないが、この教育勅語をよく読んでみる。
------------------------------------
教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ?ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ?器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其?ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
------- 現 代 口 語 訳 -------
私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。
明治二十三年十月三十日
------------------------------------
明治時代における天皇制のあり方を踏まえて上で、それらをなるべく排除し、この勅語の根幹だけをよく読んでみると、極めて真っ当なことが書いてあるし、昔、昔、親に言われたことがそのまま文字になっているとも言える。つまりは「日本の教育・文化というのはこうあるべきものですよ」という事を謳っている。例えば
> 父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、
> 友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、
> 学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、
> 世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、
> もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、
> このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです
という事。皇国というのは時代背景なので、軽く流すとして、それ以外のことは、現代社会が失われつつある部分であるとも思える。よくよく考えてみれば当たり前なのだが、実は時代として、それらが「当たり前」ではなくなっているという事も理解しなければならない。日々起こる、信じられないように事件というのは、これらの欠落であると言うのは過言か?と思う。
> 我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、
> 子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、
> 国内だけでなく外国においても間違いなき道です。
皇室の祖先〜も時代背景。注目すべきは、この勅語は「子孫臣民は共に守らなければならなもので、海外でも間違いではないという件(くだり)」これだけ明快に謳っている指針というも中々ないのではないかと思う。勅語云々の話をすると、色々といきり立つ人が多いし、天皇制がどうのこうのといった話もある。しかし書いたからといって、天皇制について議論するつもりもないし、思想として何もないからMaterialも何もない。
昨今、正気とも思えないような事象が普通に続発しているのは事実で、これらの端とすることは、何かと考えた時「昔の人は皆、こうだった」という事を振り返る事は悪いことではないと思う。お年寄りの話はいい話が多いのであれば、当時、諸外国でも高い評価を受けた教育勅語を範として、現代は現代なりにアレンジするというのもアリではないか。過去において、捨てたものであっても、運用方法が違うというだけで抹殺されてしまうもの多い。実はその中も、良いものというのはあるのだという啓示ではなかろうか。「日本ダメ論」「日本諸悪根源論」は本当にダメなのかは、誰も教えてくれないので、自分で掘り出して考えるしかない。
時代背景を考えた場合、前述の通り、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視されているので、消える運命であることは理解するが、色々と調べてみると、諸外国でも翻訳され高い評価を受けているという。然るに中身と運用は別という事だろう。もちろん思想はまるでないが、この教育勅語をよく読んでみる。
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教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ?ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ?器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其?ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
------- 現 代 口 語 訳 -------
私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。
明治二十三年十月三十日
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明治時代における天皇制のあり方を踏まえて上で、それらをなるべく排除し、この勅語の根幹だけをよく読んでみると、極めて真っ当なことが書いてあるし、昔、昔、親に言われたことがそのまま文字になっているとも言える。つまりは「日本の教育・文化というのはこうあるべきものですよ」という事を謳っている。例えば
> 父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、
> 友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、
> 学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、
> 世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、
> もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、
> このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです
という事。皇国というのは時代背景なので、軽く流すとして、それ以外のことは、現代社会が失われつつある部分であるとも思える。よくよく考えてみれば当たり前なのだが、実は時代として、それらが「当たり前」ではなくなっているという事も理解しなければならない。日々起こる、信じられないように事件というのは、これらの欠落であると言うのは過言か?と思う。
> 我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、
> 子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、
> 国内だけでなく外国においても間違いなき道です。
皇室の祖先〜も時代背景。注目すべきは、この勅語は「子孫臣民は共に守らなければならなもので、海外でも間違いではないという件(くだり)」これだけ明快に謳っている指針というも中々ないのではないかと思う。勅語云々の話をすると、色々といきり立つ人が多いし、天皇制がどうのこうのといった話もある。しかし書いたからといって、天皇制について議論するつもりもないし、思想として何もないからMaterialも何もない。
昨今、正気とも思えないような事象が普通に続発しているのは事実で、これらの端とすることは、何かと考えた時「昔の人は皆、こうだった」という事を振り返る事は悪いことではないと思う。お年寄りの話はいい話が多いのであれば、当時、諸外国でも高い評価を受けた教育勅語を範として、現代は現代なりにアレンジするというのもアリではないか。過去において、捨てたものであっても、運用方法が違うというだけで抹殺されてしまうもの多い。実はその中も、良いものというのはあるのだという啓示ではなかろうか。「日本ダメ論」「日本諸悪根源論」は本当にダメなのかは、誰も教えてくれないので、自分で掘り出して考えるしかない。
ニッカンスポーツ一面はオリックスの清原。
死球からみで報復宣言。
火曜日だから記事がないのは分かるが、これだとぶつけた投手が完全に悪だな。ケガする前によけたらどうか?と思う。『内角に投げてぶつけたら、かます』と言って外の球を打つのは卑怯だろう。
どうも、誤審、判定云々、死球、乱闘という話だと、不利な方を持ち上げて報道される傾向がある。しかし、考えてみれば、清原選手は死球が多いのは周知の事実であるが、ほとんど避けようとはしていない。当たりにいっているといってもいいケースもある。これらを全てひっくるめて、同じ土俵で考えていいものかと思う。審判の判定云々に関しても然り。不利な判定と思われるチームの監督が勢いよく出てきて、審判にくってかかるというシーンはよく見る。が、本当にそれが、監督の主張が正しいかというのは、分からない事が多い。もっと掘下げると、やっている方も観ている方もルールを知らないケースが多いから。
よく野球のジャッジも「ビデオを導入しろ」みたいな話があるが、そうなったら、プレイヤーもロボットがやるべきでだろう。もちろん許されないような、ミスジャッジもあるが、ある程度はやる方も見る方も「人がやっているのだから、間違いはある」というくらいのトーンの方がよいのではないかと思う。審判は人間がやるという事はルールブックにも謳っている。ビデオなどを取り入れたら、それこそ誤審どころの話ではなくなるではないかと思う。
死球からみで報復宣言。
火曜日だから記事がないのは分かるが、これだとぶつけた投手が完全に悪だな。ケガする前によけたらどうか?と思う。『内角に投げてぶつけたら、かます』と言って外の球を打つのは卑怯だろう。
どうも、誤審、判定云々、死球、乱闘という話だと、不利な方を持ち上げて報道される傾向がある。しかし、考えてみれば、清原選手は死球が多いのは周知の事実であるが、ほとんど避けようとはしていない。当たりにいっているといってもいいケースもある。これらを全てひっくるめて、同じ土俵で考えていいものかと思う。審判の判定云々に関しても然り。不利な判定と思われるチームの監督が勢いよく出てきて、審判にくってかかるというシーンはよく見る。が、本当にそれが、監督の主張が正しいかというのは、分からない事が多い。もっと掘下げると、やっている方も観ている方もルールを知らないケースが多いから。
よく野球のジャッジも「ビデオを導入しろ」みたいな話があるが、そうなったら、プレイヤーもロボットがやるべきでだろう。もちろん許されないような、ミスジャッジもあるが、ある程度はやる方も見る方も「人がやっているのだから、間違いはある」というくらいのトーンの方がよいのではないかと思う。審判は人間がやるという事はルールブックにも謳っている。ビデオなどを取り入れたら、それこそ誤審どころの話ではなくなるではないかと思う。
有給。本当は中山競馬場で行われる「ブリーズアップセール2006」を見に行こうと思っていたのだが、ちょっと気になり土曜日にPRセンターに電話した所、事前申込みがなければ見学できないとか。すっかり予定がなくなってしまったが、有給もわんさか余っているので、良いか。
で、ここ数週間、ずっと考えていたiPodを購入することに。原資は勤続10年の記念品(?)の全国共通百貨店商品券。いつも家電系は横浜で買っているのだが、たまには通勤経路はとは関係ない町田で購入することとする。ヨドバシに車を置いて、まずは全国共通百貨店商品券で買い物が出来るか確認。大方の予想通りというか、余す所なくダメのようだ。仕方なしにチケット屋を探することにする。もう町田のど真ん中を歩くのは、ダラダラ4年も学校に通っていた時以来だから11年以上ぶり。さすがに10年以上もほったらかしにていると一昔という感じがする。すっかりまで行かないものの、伝説の「一龍ラーメン」のあった都南デパート(ただの商店街)はなくなってしまったし、109やドンキーまで出来ている。随分と町並みに変わってしまった。フラフラと歩いてと金銭屋発見。3万円分の商品券を換金。再びヨドバシへ。
横浜のヨドバシは対応がよかったが、ここのメディアプレイヤー売り場の兄ちゃんは相当、対応が悪い。というより商品知識がかなり乏しい。iPodはともかくトランスミッタは知らないに等しい。売れ線なんだからしっかり覚えておけよ。また、5GのインターフェイスはUSB2.0だけ。さすがに、かったるくなってきた自宅のPCにそれがないので、ボードを購入しなければならない。商品知識の乏しい兄ちゃんに「PCIボードはどこに売っているか?」と聞いた所、「は?」という返事。もう、ここに来るのはよそう。結局、自力で探し出して購入。
この時点で午後5時。正午に起きて、すっかり食事をするのを忘れていた。本当は町田に来る目的として「一龍」のラーメンを食べようかと思っていたのだが、消し飛んでしまったので諦めて、帰りしなのラーメン屋に入ることとする。運転しながらどうしようかと悩んだ所、つきみ野にて「大勝軒」を発見。以前、神奈川の同店に入ったのだが、失敗だったので、再度チャレンジ。つけ麺「中」を頼んだのだが、やっぱり失敗。味は味としても量が多すぎ。最初の1口、2口はよいのだが、さすがに飽きてくる。どうも今日は何事もうまく行かない。
満足いかないまま、帰宅。早速、PCIの取り付け。だいたいPCの環境を変えると、どっかしら障害が出てくるのだが、どうやら、何事もなく装着完了。自分で言うのも何だが、今時USB2.0がついていないPCというのも、結構珍しい。それはともかく、やはり最新のiPodなだけあって、中々ご機嫌。携帯電話でもそうだが、最近は、なんでもディスプレイはカラーなんだな。所有の2Gと比べて決定的に違うのが厚さと重さ。2Gの容量は10Gだが、5Gは30G。それでも5Gの方が厚さと重さが半分程度。おそらく電池分だと思うが、世の中はどんどん進歩しているようだ。ちなみにPCのハードディスク容量は40Gしかない。外付けのハードディスクの感覚。さっそく、ガンガン、ファイルをiPodに放り込む。これで明日からは幾分、軽くなったiPodで通勤できそうだ。USB2.0の伝送スピードはIE1394と変わらないように思える。トランスミッタは土曜日にでも取り付けてみようと思う。最近は、所有のCDをかけているだけでは飽きてきてしまったので、丁度よい頃かもしれない。
本当に久しぶりに町田の街中に行ったのだが、昔はもっと「商店」という感じの店が多かったが、今はビルばっかりという感じが否めない。また町並みが変わるというのは、当時と比べて、銀行の合併でその影響も随分あるように感じる。だいたい銀行は、駅前の比較的に目立つ場所にあるから、その看板をイメージして記憶しているので幾度となく「あれ?」と思うことも。それにしても学生時代によく行っていた「一龍ラーメン」どこに行ってしまったのだろうか。移転先をご存知の方は教えてください。
で、ここ数週間、ずっと考えていたiPodを購入することに。原資は勤続10年の記念品(?)の全国共通百貨店商品券。いつも家電系は横浜で買っているのだが、たまには通勤経路はとは関係ない町田で購入することとする。ヨドバシに車を置いて、まずは全国共通百貨店商品券で買い物が出来るか確認。大方の予想通りというか、余す所なくダメのようだ。仕方なしにチケット屋を探することにする。もう町田のど真ん中を歩くのは、ダラダラ4年も学校に通っていた時以来だから11年以上ぶり。さすがに10年以上もほったらかしにていると一昔という感じがする。すっかりまで行かないものの、伝説の「一龍ラーメン」のあった都南デパート(ただの商店街)はなくなってしまったし、109やドンキーまで出来ている。随分と町並みに変わってしまった。フラフラと歩いてと金銭屋発見。3万円分の商品券を換金。再びヨドバシへ。
横浜のヨドバシは対応がよかったが、ここのメディアプレイヤー売り場の兄ちゃんは相当、対応が悪い。というより商品知識がかなり乏しい。iPodはともかくトランスミッタは知らないに等しい。売れ線なんだからしっかり覚えておけよ。また、5GのインターフェイスはUSB2.0だけ。さすがに、かったるくなってきた自宅のPCにそれがないので、ボードを購入しなければならない。商品知識の乏しい兄ちゃんに「PCIボードはどこに売っているか?」と聞いた所、「は?」という返事。もう、ここに来るのはよそう。結局、自力で探し出して購入。
この時点で午後5時。正午に起きて、すっかり食事をするのを忘れていた。本当は町田に来る目的として「一龍」のラーメンを食べようかと思っていたのだが、消し飛んでしまったので諦めて、帰りしなのラーメン屋に入ることとする。運転しながらどうしようかと悩んだ所、つきみ野にて「大勝軒」を発見。以前、神奈川の同店に入ったのだが、失敗だったので、再度チャレンジ。つけ麺「中」を頼んだのだが、やっぱり失敗。味は味としても量が多すぎ。最初の1口、2口はよいのだが、さすがに飽きてくる。どうも今日は何事もうまく行かない。
満足いかないまま、帰宅。早速、PCIの取り付け。だいたいPCの環境を変えると、どっかしら障害が出てくるのだが、どうやら、何事もなく装着完了。自分で言うのも何だが、今時USB2.0がついていないPCというのも、結構珍しい。それはともかく、やはり最新のiPodなだけあって、中々ご機嫌。携帯電話でもそうだが、最近は、なんでもディスプレイはカラーなんだな。所有の2Gと比べて決定的に違うのが厚さと重さ。2Gの容量は10Gだが、5Gは30G。それでも5Gの方が厚さと重さが半分程度。おそらく電池分だと思うが、世の中はどんどん進歩しているようだ。ちなみにPCのハードディスク容量は40Gしかない。外付けのハードディスクの感覚。さっそく、ガンガン、ファイルをiPodに放り込む。これで明日からは幾分、軽くなったiPodで通勤できそうだ。USB2.0の伝送スピードはIE1394と変わらないように思える。トランスミッタは土曜日にでも取り付けてみようと思う。最近は、所有のCDをかけているだけでは飽きてきてしまったので、丁度よい頃かもしれない。
本当に久しぶりに町田の街中に行ったのだが、昔はもっと「商店」という感じの店が多かったが、今はビルばっかりという感じが否めない。また町並みが変わるというのは、当時と比べて、銀行の合併でその影響も随分あるように感じる。だいたい銀行は、駅前の比較的に目立つ場所にあるから、その看板をイメージして記憶しているので幾度となく「あれ?」と思うことも。それにしても学生時代によく行っていた「一龍ラーメン」どこに行ってしまったのだろうか。移転先をご存知の方は教えてください。
修学旅行に連れて行かないわよ!
2006年4月23日 日常日曜日に知合いの親子を乗せて神宮へ。ここのお子さん(女の子)は小学校6年生になったばかり。最近、学校ではどのような起きているか聞いてみることにしたのだが、すごい話が聞けた。
とある集会(朝礼?)で、一部の6年生が
おしゃべりをやめずに、静かにならなかったことが
あったそうだ。
そこで、彼女の隣のクラスの担任(学年主任)が、ぶち切れて炸裂。
修学旅行に連れて行かないわよ!
と一喝。「修学旅行」というイベント中止を持ち出し脅し文句にするのは、よくある話だが、すごいのはここから。なんと喋っていた、いないに関わらず6年生全員に「反省文」を書かせて提出させたそうだ。学年主任の主張しては「連帯責任」という事らしい。
問題が山のようにある話ではないかと思う。まず脅し文句は、脅し文句としても、学年主任に修学旅行の実施の決定権があるか否かという事。学年主任が全部、旅費を面倒見てくれるなら考えられない事もないが、ないと考えるのが普通だろう。そして連帯責任という名に置いて、関係ないと思われる児童までにも「反省文」を提出させ、悪いとか悪くないというのは、全く関係ないという事。百歩譲って、反省文があったとして、いくら学年主任だからといって、彼女の担任までも同調し「反省文を書いて提出しないさい」と言い、自分のクラスの児童に書かせたこと。あんたのクラスは誰のクラスなんだよ。
というより、静かに出来ない、あんたらの責任はどこに行った!
とも問いたい。児童だけではなく、反省文を書くなら書くで、学年主任を含めた教員も全員が反省分を書くことが筋ではないか。
昨今、学校の先生の指導要領も雁字搦めになっているのは認識しているが、果たして、この方法が正しいのかと思う。現場にいる訳ではないので、話の限りだが、どうしたっておかしな話ではなかろうかと思う。ちなみに彼女の話だと彼女のクラスは、ほとんど喋っておらず、言うなれば迷惑この上ない状態。その上で、
少し喋ってしまいました。修学旅行に連れていってください
と「反省文」に書いたそうだ。彼女の反省文の意味を見出すことは中々難しい。うるさい児童を一発殴れば済む話だと思うが、どうやら遠い昔の話のようだ。
とある集会(朝礼?)で、一部の6年生が
おしゃべりをやめずに、静かにならなかったことが
あったそうだ。
そこで、彼女の隣のクラスの担任(学年主任)が、ぶち切れて炸裂。
修学旅行に連れて行かないわよ!
と一喝。「修学旅行」というイベント中止を持ち出し脅し文句にするのは、よくある話だが、すごいのはここから。なんと喋っていた、いないに関わらず6年生全員に「反省文」を書かせて提出させたそうだ。学年主任の主張しては「連帯責任」という事らしい。
問題が山のようにある話ではないかと思う。まず脅し文句は、脅し文句としても、学年主任に修学旅行の実施の決定権があるか否かという事。学年主任が全部、旅費を面倒見てくれるなら考えられない事もないが、ないと考えるのが普通だろう。そして連帯責任という名に置いて、関係ないと思われる児童までにも「反省文」を提出させ、悪いとか悪くないというのは、全く関係ないという事。百歩譲って、反省文があったとして、いくら学年主任だからといって、彼女の担任までも同調し「反省文を書いて提出しないさい」と言い、自分のクラスの児童に書かせたこと。あんたのクラスは誰のクラスなんだよ。
というより、静かに出来ない、あんたらの責任はどこに行った!
とも問いたい。児童だけではなく、反省文を書くなら書くで、学年主任を含めた教員も全員が反省分を書くことが筋ではないか。
昨今、学校の先生の指導要領も雁字搦めになっているのは認識しているが、果たして、この方法が正しいのかと思う。現場にいる訳ではないので、話の限りだが、どうしたっておかしな話ではなかろうかと思う。ちなみに彼女の話だと彼女のクラスは、ほとんど喋っておらず、言うなれば迷惑この上ない状態。その上で、
少し喋ってしまいました。修学旅行に連れていってください
と「反省文」に書いたそうだ。彼女の反省文の意味を見出すことは中々難しい。うるさい児童を一発殴れば済む話だと思うが、どうやら遠い昔の話のようだ。
何故、球場に行くか?
2006年4月22日 日常土曜日に横浜の某所にて野球好き6人で、神宮の横浜戦を見ながら、あれやこれやと5時間ほど野球談義。野球談義といっても、「あのチームの采配は悪い」とか「4番がダメだ」という話は余りなく
・前日のドームで主審・渡真利さんが倒れた時は、
インプレイか?ボールデッドか?
・何故、ランナー1塁の時に偽投のは禁止されているのか?
・ルール上、抗議権は誰にあるのか?
・野球を知らない人にどうやってボークを説明するか?
というようなかなりディープな話。このようなルール上の話をしていると、よ野球のルールは実に奥深いという事を再認識する。ルールの話をして行くと最後は「どうして、このルールが出来たのか?」という理由になり、最後はシンプルな話になるもので、論旨としては「我々は何故、球場に通うか?」という話にもなる。無論、一定のチームを応援しているから、野球が好きだからと、さまざまな理由が出てくるが、もっともシンプルな答えとして
球場のコンコースから場内に入って、
一番最初に目に飛び込んでくる開放感が好きだから
という事で、大方一致する。確かにそのとおり。自分は5歳の時に横浜スタジアムが完成して通っているが、一番最初に球場が出来た時に見た風景は決して忘れないし、今でも同じくらいの感覚で場内の開放感が好きである。球場に行く理由はさまざまあると思う。好きなチームを応援するのが好きな人。球場でビールを飲むことが好きな人、野球自体が好きな人。そして共通して言えるのが、テレビでは感じ取れない開放感。これだけは、みんな共通の理由ではないかと思う。
・前日のドームで主審・渡真利さんが倒れた時は、
インプレイか?ボールデッドか?
・何故、ランナー1塁の時に偽投のは禁止されているのか?
・ルール上、抗議権は誰にあるのか?
・野球を知らない人にどうやってボークを説明するか?
というようなかなりディープな話。このようなルール上の話をしていると、よ野球のルールは実に奥深いという事を再認識する。ルールの話をして行くと最後は「どうして、このルールが出来たのか?」という理由になり、最後はシンプルな話になるもので、論旨としては「我々は何故、球場に通うか?」という話にもなる。無論、一定のチームを応援しているから、野球が好きだからと、さまざまな理由が出てくるが、もっともシンプルな答えとして
球場のコンコースから場内に入って、
一番最初に目に飛び込んでくる開放感が好きだから
という事で、大方一致する。確かにそのとおり。自分は5歳の時に横浜スタジアムが完成して通っているが、一番最初に球場が出来た時に見た風景は決して忘れないし、今でも同じくらいの感覚で場内の開放感が好きである。球場に行く理由はさまざまあると思う。好きなチームを応援するのが好きな人。球場でビールを飲むことが好きな人、野球自体が好きな人。そして共通して言えるのが、テレビでは感じ取れない開放感。これだけは、みんな共通の理由ではないかと思う。
例の驚愕の再会を果した、元銀行員のお姉さん達との食事。よくよく考えてみたら、昔は週に2回も会っていた人達なのに、一緒に食事をするのは初めて。話の内容も、昔はあーだった、こうだったというようなことが大半。余り、未来的志向はない話が2時間続いて終わり。
昔話というのも、そう悪いものではない
という事に気がつく。今は今で楽しいのだが、昔は昔で楽しかったという事。生活環境やら社会が変われば、考え方ややり方は当然変わる。一番簡単な例では、昔は携帯電話なんて持っている人はほとんどいなかった訳だし、メールを普通にやれる人というのも、限られていた。だからといって、その時が大変だったかといわれれば、自分は、それほど苦労した覚えもない。つまりは、その時々に自分なりに、何とかこなして来たということが、昔話をしているとよく分かる。
勘違いしてはいけないのが「昔はよかった」というパターンは往々にして、辛かったことは全部排除されて話すから、美化されるケースが多い。比較するという事は意外と難しいこと。ともあれ「昔はよかった、昔はよかった」と言った所で、決して戻ってどうこうするという事ができないという事は、忘れてはならないと思う。隣の芝生は・・・に似ている話でもあるな。
昔話というのも、そう悪いものではない
という事に気がつく。今は今で楽しいのだが、昔は昔で楽しかったという事。生活環境やら社会が変われば、考え方ややり方は当然変わる。一番簡単な例では、昔は携帯電話なんて持っている人はほとんどいなかった訳だし、メールを普通にやれる人というのも、限られていた。だからといって、その時が大変だったかといわれれば、自分は、それほど苦労した覚えもない。つまりは、その時々に自分なりに、何とかこなして来たということが、昔話をしているとよく分かる。
勘違いしてはいけないのが「昔はよかった」というパターンは往々にして、辛かったことは全部排除されて話すから、美化されるケースが多い。比較するという事は意外と難しいこと。ともあれ「昔はよかった、昔はよかった」と言った所で、決して戻ってどうこうするという事ができないという事は、忘れてはならないと思う。隣の芝生は・・・に似ている話でもあるな。
いいんだか、悪いんだか
2006年4月20日 日常帰宅してジャンクメールの中から、相当前に登録したSNS系サービスからのメール。中を開くと、なんと専門学校時代の友人からのメール。1回目の専門学校を卒業したのが1993年だから13年ぶりとなる。当時はメールもないし、携帯電話も今ほど、普及していなかったので、卒業して引っ越したらそれで終わり。ただ、昨今のインターネットの普及のおかげで、同級生だったり同窓生がWeb上で再びつながり事が可能となった。
と、ふと気になり自分が卒業した学校の卒業生一覧を見ると当時、付き合っていた彼女の名前を発見。どうやら結婚して名前が変わっているようだ。自分は当時と余り変わっていない生活環境なのだが、時間というのは確実に流れているらしい。ここで、とあることに気がつく。風の噂的な話やWebなどの情報で、それらが全部、正しいとした場合だが、過去、付き合って女の子はこれで全て結婚したという事が確認できた。いいんだか、悪いのだが。どうか私の分まで幸せになってくださいませ。
と、ふと気になり自分が卒業した学校の卒業生一覧を見ると当時、付き合っていた彼女の名前を発見。どうやら結婚して名前が変わっているようだ。自分は当時と余り変わっていない生活環境なのだが、時間というのは確実に流れているらしい。ここで、とあることに気がつく。風の噂的な話やWebなどの情報で、それらが全部、正しいとした場合だが、過去、付き合って女の子はこれで全て結婚したという事が確認できた。いいんだか、悪いのだが。どうか私の分まで幸せになってくださいませ。