文句があるなら胸倉つかんで言え!
2006年7月8日 日常中井の湘南対楽天の試合後、ベイスターズナビゲーターのケチャップ(芸人)と話す時間があったのだが、ケチャップ曰く、2ちゃんねるで相当ヒドイことを言われているらしい。まったく2ちゃんねるなどというものを見ないので、どんなものか分からないが、彼曰く、実況スレッドで、「死ぬ」くらいのことを書かれているそうで、吉岡さちこオフィシャルレポーターにいたっては「怖くてみられない」と言っているそうだ。プロ野球という業態で生業としている以上、ある程度は仕方がないが、匿名をいいことに、まったく芸のない罵詈雑言を直接表現で、一方的に罵るというのはMasturbationかつ卑怯者以外の何者でもない。
本気で文句があるなら、
直接、本人の胸倉つかんで文句言え。
到底できる連中とは思えないので、余計に哀れに思う。確かに、色々な人が色々なことを考えているから、「好き」だとか「嫌い」だとかという事がある。ただし、それを表現・伝達するにあたって、何してもいいのかという話になれば、例外なくダメ。普通は、それくらいの認識があってしかるべきだと思うが、どうも2ちゃんねるごときに、うだうだ書いている連中は、そのあたりを軽く蹴っ飛ばしてといている。
人づてに聞いていた話ではあるが、自分も散々書かれたことがある(今もかもしれないが)ただ、全然気にしない。書かれるくらいのリスクは承知の上だし、上記の通り、
文句があるなら、うじゃうじゃ書いていないで直接かかって来い。
くらいのつもりでいるから。
本気で文句があるなら、
直接、本人の胸倉つかんで文句言え。
到底できる連中とは思えないので、余計に哀れに思う。確かに、色々な人が色々なことを考えているから、「好き」だとか「嫌い」だとかという事がある。ただし、それを表現・伝達するにあたって、何してもいいのかという話になれば、例外なくダメ。普通は、それくらいの認識があってしかるべきだと思うが、どうも2ちゃんねるごときに、うだうだ書いている連中は、そのあたりを軽く蹴っ飛ばしてといている。
人づてに聞いていた話ではあるが、自分も散々書かれたことがある(今もかもしれないが)ただ、全然気にしない。書かれるくらいのリスクは承知の上だし、上記の通り、
文句があるなら、うじゃうじゃ書いていないで直接かかって来い。
くらいのつもりでいるから。
昨日から平塚の七夕がはじまったらしい。平塚の高校に通っていたにも関わらず、在学中は行ったことなし。平塚から比較的近いところに住んでいるにも関わらず、多分2回くらいしか行った事がないと思う。どうも嫌いという感情とは違うのだが、昔から、お祭り自体が性に合わないらしく「行ってもただ、疲れるだけ」的な感覚が先に出てきてしまう。花火大会も似たように傾向がある。
高校時代、七夕時期に期末テストがぶつけられたような気がするが、今もそうなんだろうか。また開催中は広範囲で交通規制となるため通学のバスがやたらショートカットした覚えがある
高校時代、七夕時期に期末テストがぶつけられたような気がするが、今もそうなんだろうか。また開催中は広範囲で交通規制となるため通学のバスがやたらショートカットした覚えがある
http://www.1101.com/essay/2006-06-28.html
山田ズーニーさんのコラムより。
毎度、書いているが、ここでblogを記していることは「文章力の向上」を目標としている。とはいっても、日々の題材として、いくつも書きたいことがあれば、その逆に全く書けない日もある。最近の傾向として、この「波」が非常に顕著で、1週間単位のバッチで、どかんと書くことが多くなった。最近、仕事もちょっと煩雑なものが多くなって、自宅でPC向かうのも以前に比べれば、時間が減ったというのも事実だし、PCに向かうというより読書週間状態というのも原因としてある。
どうも情報・知識というのは、無限に蓄積してくれるのではないという事を最近知る。当たり前といえば当たり前なのだが、ガンガン書いていた時というのは、まったくそんな事は考えたことすらなかった。1日、生活していれば「何かあるだろう」くらいの感じに。しかし最近は、本を読む、新聞を読むなどして情報・知識を蓄え、自分の考えや思っていることを加えて、こうししてblogとして表現すると、貯蓄が空になりクリーンナップされる。そしてまた本を読み、新聞を読み、また書くというルーチン。まさに本文に書かれている「掃除」ではないかと思う。
ただ、空になったら終わりかといえば、そうではない。こうして記しているという事は、情報の記録であり、これこそが無限に続くのではないかと思う。こんなに長い事を続けていて、今更、こんなことを知るというのは、ちょっと恥ずかしい気もするが、続けていなければ、決して知ることがなかったこと。そういった意味では、継続している意義というのは、確実にある。
山田ズーニーさんのコラムより。
毎度、書いているが、ここでblogを記していることは「文章力の向上」を目標としている。とはいっても、日々の題材として、いくつも書きたいことがあれば、その逆に全く書けない日もある。最近の傾向として、この「波」が非常に顕著で、1週間単位のバッチで、どかんと書くことが多くなった。最近、仕事もちょっと煩雑なものが多くなって、自宅でPC向かうのも以前に比べれば、時間が減ったというのも事実だし、PCに向かうというより読書週間状態というのも原因としてある。
どうも情報・知識というのは、無限に蓄積してくれるのではないという事を最近知る。当たり前といえば当たり前なのだが、ガンガン書いていた時というのは、まったくそんな事は考えたことすらなかった。1日、生活していれば「何かあるだろう」くらいの感じに。しかし最近は、本を読む、新聞を読むなどして情報・知識を蓄え、自分の考えや思っていることを加えて、こうししてblogとして表現すると、貯蓄が空になりクリーンナップされる。そしてまた本を読み、新聞を読み、また書くというルーチン。まさに本文に書かれている「掃除」ではないかと思う。
ただ、空になったら終わりかといえば、そうではない。こうして記しているという事は、情報の記録であり、これこそが無限に続くのではないかと思う。こんなに長い事を続けていて、今更、こんなことを知るというのは、ちょっと恥ずかしい気もするが、続けていなければ、決して知ることがなかったこと。そういった意味では、継続している意義というのは、確実にある。
引き続き学校話。知り合いの小学校6年生の子に、最近の授業はどのようなものがあるかと聞いた所「調べ学習」なるカリキュラムがあるそうだ。まったく想像がつかないので「調べ学習」を調べてみると、
http://www.nipponhyojun.co.jp/search/kyoutu/kyo_01/cont0.html
ということらしい。我々の時代にもあったような気がするが、社会の一部であったり、理科の一部だったものが分離したという事だろう。
このカリキュラムが成功しているかどうかは分からないが、感覚だと最近の話のように思えるが、これは中々、面白い授業ではないだろうか。子供というは、時に信じられないように発想をするもので、それをトリガーで探求していくのは、よいと思う。それらには教師側が、余り型にハメずになんでも受け入れる土壌が前提になるが。
そもそもアイデアというのは、生まれもったものというより、自らの経験で、培われていくものだから「調べ学習」に期待したい。
http://www.nipponhyojun.co.jp/search/kyoutu/kyo_01/cont0.html
ということらしい。我々の時代にもあったような気がするが、社会の一部であったり、理科の一部だったものが分離したという事だろう。
このカリキュラムが成功しているかどうかは分からないが、感覚だと最近の話のように思えるが、これは中々、面白い授業ではないだろうか。子供というは、時に信じられないように発想をするもので、それをトリガーで探求していくのは、よいと思う。それらには教師側が、余り型にハメずになんでも受け入れる土壌が前提になるが。
そもそもアイデアというのは、生まれもったものというより、自らの経験で、培われていくものだから「調べ学習」に期待したい。
mixiの日記で知ったのだが、最近の神奈川県の学校は二期制が、おお流行らしい。聞けば、秋に1期目と2期目の境があるようで、何日か休みもあるそうだ。という事は、春休み、夏休み、秋休み、冬休みと3ヶ月に1回は、休みがあるという事になる。さらに土曜日が休み。いつ学校に言っているかと思う。
そう考えると、自分が高校時代までは土曜日も半日とはいえ学校があった訳で、単純に年間の休みが50日増えたという事になるのか。いい時代だな。ただ平日に時間が多くなったと考えれば同じか?
そう考えると、自分が高校時代までは土曜日も半日とはいえ学校があった訳で、単純に年間の休みが50日増えたという事になるのか。いい時代だな。ただ平日に時間が多くなったと考えれば同じか?
ラムタラ、英国へ売却
2006年7月3日 日常昨今の競馬は調教技術、育成技術の向上は著しいが「どうしたら強い馬を生産できるか?」という課題については、競馬が始まって300年もの歴史を経ても未だ論理的に解明できていない。おそらく、今後もできないだろうと思われる。単純に強い馬同士を掛け合わせたしても、より強い馬ができる訳でもないし、その逆も然りで、オグリキャップのように、それまで誰も知らなかった種牡馬から名馬が生まれることもある。日本競馬界において、大種牡馬であるサンデーサイレンスは母国アメリカで血統が嫌われ日本に渡り、血統勢力図を大きく変えた。言い古された言葉で言うなら生産とは「神のみぞ知る」というところか。
ラムタラとは、アラビア語で「見ることができないほど速い」という意味で、のちに10ヶ月の休養明けの英国ダービーを見事制し「奇跡の脚」「神の脚」とも言わた。その後もキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスはペンタイアらを破り優勝。さらに凱旋門賞までも制し、史上初めて無敗でヨーロッパの三大レースを全て制した。その後1年、英国での種牡馬として供用の後、日本で日高の生産者グループが約32億円で輸入し日本で種牡馬として供用されたが、産駒が振るわず、このたび、英国に売却されるという。32億円で購入した同馬が、24万ドル(約2750万円)で売却。「神のみぞ知る」というには、日高の生産者としては高すぎる話ではなかったのか。
ラムタラとは、アラビア語で「見ることができないほど速い」という意味で、のちに10ヶ月の休養明けの英国ダービーを見事制し「奇跡の脚」「神の脚」とも言わた。その後もキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスはペンタイアらを破り優勝。さらに凱旋門賞までも制し、史上初めて無敗でヨーロッパの三大レースを全て制した。その後1年、英国での種牡馬として供用の後、日本で日高の生産者グループが約32億円で輸入し日本で種牡馬として供用されたが、産駒が振るわず、このたび、英国に売却されるという。32億円で購入した同馬が、24万ドル(約2750万円)で売却。「神のみぞ知る」というには、日高の生産者としては高すぎる話ではなかったのか。
〜6月30日 毎日新聞より抜粋〜
体育時の着替えを男女同室で行っているのは小学校では低学年を中心に平均で62.97%、中学校は7.49%、高校1.12%。林間学校やキャンプなどで男女同室での宿泊は小学校の1.55%、中学校は2校で、高校はゼロだった。
--------------------
自分の通っていた高校というのは、神奈川県立の商業高校。多くの商業高校がそうであるように圧倒的に女子が多い。在学中で800人弱の全校生徒で、男子は約30人。学年では約250人の生徒の中、男子は9人(入学時は10人)という当時の消費税と同じくらいの割合。で、つい最近、高校の同窓生と新たにmixiでマイミクになりメールで、高校時代の話になる。その中で、
そういえば、体育の時は女の子と一緒に着替えていた
という話になる。そもそも男子は9人しかいないので1つのクラスに押し込められる。クラスが45人程度として、男子9人、女子が36人という構図。さらに2年から3年になる時は、クラス替えがない「持ち上がり」だったので、2年間は同じメンバー。確かに1年生の時や2年生の初めの頃は、トイレなどで着替えていた記憶があるが、そのうち、男も女も面倒になり、いつの間にか一緒に着替えたように記憶している。さらにどういう訳か、体育は通常の始業の5分前から初めて、就業の5分前に終わるという謎のルールがあったため、比較的着替えが単純な男子を他所に、女子の皆様は、体育の授業の休み時間にせっせと着替えていた(3時間目は体育→1時間目と2時間目の間の休み時間に着替える)
今思えば、スゴイ話である。田嶋陽子がうちの学校にいたら大紛糾しただろう。ただ、我々当事者としては、「着替えるから出ていって」「着替え終わるまで入ってこないで」みたいな事は言われなかったし、取り立てて変なことも起きなかった。なんとなく「男女比がこんなだから仕方ないよね」みたいな感じで、変な協力関係が出来あがっていた。今更ながら考えてみると、たくさんの女の子の中に少数の男というのは、男として存在価値がない。逆に、男がいっぱいの中の女というのは、多少、顔が個性的であっても比較対象がないので、そこそこ「持ち上げられる」という傾向がある。然るに、これが男36人、女9人だったら成立しない話ではないだろうかと思う。
卒業してから、高校の話になると「男女比が〜」みたいな話になると「すげーいい学校じゃん!」というようなことを言われる(特に男子校卒業した人)ただ、前述のようなことが、日常茶飯事に起きると、取り立てて「よい」という事もなく、男子高に行きたいとまでは思わないが「半々くらいがいい」と、入学してすぐ思うようになる。外で見たり感じたりするのと、中にいるのでは、結構、印象が違うという事だ。こんな経験をして思うのが、ジェンダーフリーだとか男女平等だとか言うけど、直接、なんらかの被害を被っている人には申し訳ないが、全て杓子定規に当てはめるのは無理という事と、男も女も特殊な環境下になると、意外とどうでもよくなるという事。
ちなみに、高校卒業後に入学した専門学校では、クラス45人で男子40人、女子5人という高校時代とまったく逆の環境におかれた。しかし通算で考えればちゃらぱーかな?と考えたりもする。
体育時の着替えを男女同室で行っているのは小学校では低学年を中心に平均で62.97%、中学校は7.49%、高校1.12%。林間学校やキャンプなどで男女同室での宿泊は小学校の1.55%、中学校は2校で、高校はゼロだった。
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自分の通っていた高校というのは、神奈川県立の商業高校。多くの商業高校がそうであるように圧倒的に女子が多い。在学中で800人弱の全校生徒で、男子は約30人。学年では約250人の生徒の中、男子は9人(入学時は10人)という当時の消費税と同じくらいの割合。で、つい最近、高校の同窓生と新たにmixiでマイミクになりメールで、高校時代の話になる。その中で、
そういえば、体育の時は女の子と一緒に着替えていた
という話になる。そもそも男子は9人しかいないので1つのクラスに押し込められる。クラスが45人程度として、男子9人、女子が36人という構図。さらに2年から3年になる時は、クラス替えがない「持ち上がり」だったので、2年間は同じメンバー。確かに1年生の時や2年生の初めの頃は、トイレなどで着替えていた記憶があるが、そのうち、男も女も面倒になり、いつの間にか一緒に着替えたように記憶している。さらにどういう訳か、体育は通常の始業の5分前から初めて、就業の5分前に終わるという謎のルールがあったため、比較的着替えが単純な男子を他所に、女子の皆様は、体育の授業の休み時間にせっせと着替えていた(3時間目は体育→1時間目と2時間目の間の休み時間に着替える)
今思えば、スゴイ話である。田嶋陽子がうちの学校にいたら大紛糾しただろう。ただ、我々当事者としては、「着替えるから出ていって」「着替え終わるまで入ってこないで」みたいな事は言われなかったし、取り立てて変なことも起きなかった。なんとなく「男女比がこんなだから仕方ないよね」みたいな感じで、変な協力関係が出来あがっていた。今更ながら考えてみると、たくさんの女の子の中に少数の男というのは、男として存在価値がない。逆に、男がいっぱいの中の女というのは、多少、顔が個性的であっても比較対象がないので、そこそこ「持ち上げられる」という傾向がある。然るに、これが男36人、女9人だったら成立しない話ではないだろうかと思う。
卒業してから、高校の話になると「男女比が〜」みたいな話になると「すげーいい学校じゃん!」というようなことを言われる(特に男子校卒業した人)ただ、前述のようなことが、日常茶飯事に起きると、取り立てて「よい」という事もなく、男子高に行きたいとまでは思わないが「半々くらいがいい」と、入学してすぐ思うようになる。外で見たり感じたりするのと、中にいるのでは、結構、印象が違うという事だ。こんな経験をして思うのが、ジェンダーフリーだとか男女平等だとか言うけど、直接、なんらかの被害を被っている人には申し訳ないが、全て杓子定規に当てはめるのは無理という事と、男も女も特殊な環境下になると、意外とどうでもよくなるという事。
ちなみに、高校卒業後に入学した専門学校では、クラス45人で男子40人、女子5人という高校時代とまったく逆の環境におかれた。しかし通算で考えればちゃらぱーかな?と考えたりもする。
義理人情と便利な道具
2006年7月1日 日常都市部では「近所付き合いがない」とか「隣の人の顔を知らない」というようなことをよく耳にする。一方、自分の住んでいるところでは、意外と反対で「○○さんところの○○さん」みたいな話が、近所であれば普通に通じる。これもいいのか悪いのか、近所の床屋などに行っても「まだ結婚しないの?」というようなことを言われ、返答に困るのだが、個人保護法なんぞ露知らずに情報が出回っているという事を考えると、自分の地元など間違いなく地方都市という事を感じる。
昨年、三丁目の夕日という映画が大ヒットしたのだが、自分の親くらいの人の年代は「懐かしい」と口をそろえて言う。もちろん町並みや風景の事もあるのだが、古臭い言い方だと「人情」とか「義理」といった現在、希薄とされている事柄に重きを置いて話ているのがよく分かる。三丁目の夕日のキャッチコピーは「携帯電話もパソコンもなかったが楽しかった」的な事を言っており、映画としても描写されている。「今は簡単だけど、昔は大変だったのだよね」というように、不便な時は、不便なりに知恵を絞ったり、周りと協力して達成したりという時代だったのではないかと思う。携帯電話を1つとっても自分の学生時代は、そんなものは存在しなかった訳だが、ちゃんと友達と約束をして、遊びに行ったし、待ち合わせの時間に来なければ駅の伝言板に書いたりと、今では「懐かしい」という意外の表現方法がないことも普通にしていた。不便だったが、それはそれで、よかったのではないかと思う。
現代における「人情」とか「義理」というのは、どういうものかという事を考える。確かに昔に比べて色々な事が便利になったのは事実で、1人で何でもできるし、昔に比べれば、皆、そこそこお金がある時代となった(物の値段が下がったという面から)それにおいて、道具に頼るばかりで、「義理」とか「人情」といった事をどこかにおいてきてしまったという点は否めないし、また、そもそも、持ち合わせていない人とも多くなってきたのも少なからず感じる。これらの言葉は、今となっては、とても古臭く、口に出すのも憚れるような感じもするのだが、何があっても、口に出さなくても、常に持ち合わせるべきではないか。決して便利な道具だけが、全てを解決できることではないという事を認識しなければならない。
昨年、三丁目の夕日という映画が大ヒットしたのだが、自分の親くらいの人の年代は「懐かしい」と口をそろえて言う。もちろん町並みや風景の事もあるのだが、古臭い言い方だと「人情」とか「義理」といった現在、希薄とされている事柄に重きを置いて話ているのがよく分かる。三丁目の夕日のキャッチコピーは「携帯電話もパソコンもなかったが楽しかった」的な事を言っており、映画としても描写されている。「今は簡単だけど、昔は大変だったのだよね」というように、不便な時は、不便なりに知恵を絞ったり、周りと協力して達成したりという時代だったのではないかと思う。携帯電話を1つとっても自分の学生時代は、そんなものは存在しなかった訳だが、ちゃんと友達と約束をして、遊びに行ったし、待ち合わせの時間に来なければ駅の伝言板に書いたりと、今では「懐かしい」という意外の表現方法がないことも普通にしていた。不便だったが、それはそれで、よかったのではないかと思う。
現代における「人情」とか「義理」というのは、どういうものかという事を考える。確かに昔に比べて色々な事が便利になったのは事実で、1人で何でもできるし、昔に比べれば、皆、そこそこお金がある時代となった(物の値段が下がったという面から)それにおいて、道具に頼るばかりで、「義理」とか「人情」といった事をどこかにおいてきてしまったという点は否めないし、また、そもそも、持ち合わせていない人とも多くなってきたのも少なからず感じる。これらの言葉は、今となっては、とても古臭く、口に出すのも憚れるような感じもするのだが、何があっても、口に出さなくても、常に持ち合わせるべきではないか。決して便利な道具だけが、全てを解決できることではないという事を認識しなければならない。
昔、業務でとあるシステムプロジェクトに参加した時に、ベンダーのSEから、
システムというのは、その会社の文化
と言われたことがある。その時は「何のこっちゃ」と思っていたが、実際にカットオーバーになり、使っているうちに「ああ、なるほど」思うようになったことがある。基幹とは、あるものの根本。会社の文化が詰め込まれているというは、後々、納得できる話となった。
歳を重ねていくごとに、色々な人と出会うようになる。色々な人と話していけばいくだけ、自分の「人物データベース」がどんどん構築されていく。それが、次に会う人と、過去、出会ったことのある似たタイプの人がいるかどうかをサーチし「ああ、このような人は、こう対応すればいいのだ」という事をはじき出す。恐らく自分だけではなく、多くの人がそうであると思う。言うなれば、多くの人に会えば会うだけ、自分のデータベースが大きくなっていくのだから、どんどん財産として蓄積されると考えられる。だから、人にはたくさん会った方がいいし、自分のデータベースにない人に出会いたいと常々思っている。それが年齢だとか性別だとかという事は余り関係ない。この自分しかないデータベースこそが、自分の基幹情報であるように最近感じる。
陳腐化した質問で「数少ない友人と蜜月な関係を持つか」「広く浅く付き合うか」というような質問があるが、どうしても答えろというのであれば答えは
多くの人と深く付き合いたい
というのが目標。人が人を呼び、人が人を育てる。まだまだ自分のデータベースは未完成。
システムというのは、その会社の文化
と言われたことがある。その時は「何のこっちゃ」と思っていたが、実際にカットオーバーになり、使っているうちに「ああ、なるほど」思うようになったことがある。基幹とは、あるものの根本。会社の文化が詰め込まれているというは、後々、納得できる話となった。
歳を重ねていくごとに、色々な人と出会うようになる。色々な人と話していけばいくだけ、自分の「人物データベース」がどんどん構築されていく。それが、次に会う人と、過去、出会ったことのある似たタイプの人がいるかどうかをサーチし「ああ、このような人は、こう対応すればいいのだ」という事をはじき出す。恐らく自分だけではなく、多くの人がそうであると思う。言うなれば、多くの人に会えば会うだけ、自分のデータベースが大きくなっていくのだから、どんどん財産として蓄積されると考えられる。だから、人にはたくさん会った方がいいし、自分のデータベースにない人に出会いたいと常々思っている。それが年齢だとか性別だとかという事は余り関係ない。この自分しかないデータベースこそが、自分の基幹情報であるように最近感じる。
陳腐化した質問で「数少ない友人と蜜月な関係を持つか」「広く浅く付き合うか」というような質問があるが、どうしても答えろというのであれば答えは
多くの人と深く付き合いたい
というのが目標。人が人を呼び、人が人を育てる。まだまだ自分のデータベースは未完成。
競馬よ!―夢とロマンを取り戻せ
2006年6月29日 食道楽遊戯
なんとなく読書週間。ここ数年では珍しく2週間で3冊の新書を買い込む。で、今日、読破したのがこの本。著者は日経新聞運動部記者の野元賢一という人。確かに競馬の本ではあるが、「こうすれば馬券が当たる」的な本ではなくて、日本中央競馬会とは、どういう団体か?地方競馬も含めて、日本の競馬界は、これからどうなるか?といった趣旨の本で、まったく馬券検討の参考にはならない。
そもそも日本の刑法下では賭博は禁止である。例外として、日本中央競馬と地方競馬、競輪、オートレース、競艇がある。例外がある以上は、法的な規制も厳しいし、何より「公正」というキーワードが重くのしかかる業界。故に90年代初頭に売り上げ4兆円を稼いだ日本中央競馬会もここに来て、売上の減少が止まらず、ついには3兆円も切ってしまっているそうだ。しかし、何か新たな試みをしようとも、法規制と「公正」のキーワードに苛まれて、結果的には、何もしない、できないと著者は言う。
また、著者はプロ野球の記者の経験から、日本のプロ野球の構造も競馬にあわせて言及しているが、実に酷似している点が多いという。今までは業界全体が護送船団方式であるが、競馬も野球も「曲がり角」に来て、さて、将来どうするかという事。どちらも出来れば、未来永劫発展してほしいとは願うが、中々、そうも行かないというのが現状のようだ。
そもそも日本の刑法下では賭博は禁止である。例外として、日本中央競馬と地方競馬、競輪、オートレース、競艇がある。例外がある以上は、法的な規制も厳しいし、何より「公正」というキーワードが重くのしかかる業界。故に90年代初頭に売り上げ4兆円を稼いだ日本中央競馬会もここに来て、売上の減少が止まらず、ついには3兆円も切ってしまっているそうだ。しかし、何か新たな試みをしようとも、法規制と「公正」のキーワードに苛まれて、結果的には、何もしない、できないと著者は言う。
また、著者はプロ野球の記者の経験から、日本のプロ野球の構造も競馬にあわせて言及しているが、実に酷似している点が多いという。今までは業界全体が護送船団方式であるが、競馬も野球も「曲がり角」に来て、さて、将来どうするかという事。どちらも出来れば、未来永劫発展してほしいとは願うが、中々、そうも行かないというのが現状のようだ。
Market value of professional baseball
2006年6月28日 日常トップシーズンにも関わらず、巨人戦が地上波で中継されない日が来た。ワールドカップの開催中だし、一概に「どうだ」という事もいえないが、普通に中継がないというのには、多少の違和感がある。よく巨人戦の視聴率がニュースになり、軒並み下落の一途を辿っている。このニュースが出てくると
巨人戦の視聴率が落ちたからと言って
プロ野球全体の人気が落ちたというのはおかいしい
という人がいる。確かにその通りだと思う。しかし、ちょっと切り口を変えてみた場合、
巨人戦以外のカードで、現行の巨人戦の視聴率を
上回るカードが存在するのか?
という事。例えば、阪神タイガースというチームがあるが、関西地区はともかくとして、全国区で放送できるソフトウエアかどうかというと疑問が残る。夜の7時から、全国中継の地上波で
阪神 対 横浜
の試合を中継したとしても、関西地区以外で巨人戦の視聴率以上は稼げないという事が安易に推測できるし、もとよりしっくり来ない。パの試合の中継なら言うまでもない。という事は、巨人戦の視聴率は、現在のプロ野球全体を考えた場合、最高の視聴率という事も逆説的にも考えられる。
つまりは『巨人戦の視聴率』という単語における『巨人』というキーワードに拒絶反応するのではなくて『霞ヶ関ビル○○分』の『霞ヶ関』でように、ある基準値くらいに考えるべきではないか。自分の子供の頃、お父さんが会社から帰ってきて、ビール飲みながらナイターを見るというのは、一般的な家庭のモデルであったと思う。ところが、今、そんなことをするお父さん大多数を占めるとは思えない。仮に自分が子供の頃を20年前と仮定した場合、今日まで、どういった時代の変化があったかと考えてみると、サッカーを初めてとして、野球に限らずさまざまな選択肢ができた訳で、何もナイターなんて見る事ないという時代になっていると言わざる終えない。ただ、これに気がついている人がどれくらいいるかというオペレーション側の問題がある。セの球団も「巨人戦があるから」の理由で、ズルズルここまで来たという事は、言い方が悪いが殿様商売と言うしかないのではないか。
巨人戦の視聴率を『ある基準値』と考え、またそれ以上のカードが日本のプロ野球に存在しないとすると、日本プロ野球のテレビにおける市場価値というのは、実はオペレーション側も、観ている側も思った以上に下落しているという事を認識するべきだろう。確かに球場に行く人は増えているかも知れないが、これは仮説ではあるが、視聴率が下落しても観客動員は、微増しているという事は、
(1) 年に数回行く人が、まったくいかなくなった
(2) 年に数回しか行かなかった人が、何度も行くようになった
という図式ではないかと思う。(2)が(1)を上回っていればという思われるが、実はそうではなくて、どんどん「行く人」と「行かない人」が乖離し始めてるという現象がおきている。つまりはリピーターは何度も行くが、新規顧客が減少しているという事。リピーターは増えることがないので、行かなくなってしまえば、それで終わり。しかし新規顧客の場合は、それだけパイが広がる可能性があるという事。リピーターが多いという事は、固定の顧客の確保という側面では成功しているが、どんどんとマーケットとして縮小傾向になって行くという事も忘れてはならない。
今日の横浜対巨人の試合は、BS-iで見ていたのだが「プロ野球を見たいのなら、自分で金を払って、設備を整えて、毎月、視聴料を払え」という暗示ではないかと感じる。時代の変化といってしまえば、それまでだが、社会が再びプロ野球という興行を迎合するようにするのが、オペレーション側の急務ではないかと思う。
巨人戦の視聴率が落ちたからと言って
プロ野球全体の人気が落ちたというのはおかいしい
という人がいる。確かにその通りだと思う。しかし、ちょっと切り口を変えてみた場合、
巨人戦以外のカードで、現行の巨人戦の視聴率を
上回るカードが存在するのか?
という事。例えば、阪神タイガースというチームがあるが、関西地区はともかくとして、全国区で放送できるソフトウエアかどうかというと疑問が残る。夜の7時から、全国中継の地上波で
阪神 対 横浜
の試合を中継したとしても、関西地区以外で巨人戦の視聴率以上は稼げないという事が安易に推測できるし、もとよりしっくり来ない。パの試合の中継なら言うまでもない。という事は、巨人戦の視聴率は、現在のプロ野球全体を考えた場合、最高の視聴率という事も逆説的にも考えられる。
つまりは『巨人戦の視聴率』という単語における『巨人』というキーワードに拒絶反応するのではなくて『霞ヶ関ビル○○分』の『霞ヶ関』でように、ある基準値くらいに考えるべきではないか。自分の子供の頃、お父さんが会社から帰ってきて、ビール飲みながらナイターを見るというのは、一般的な家庭のモデルであったと思う。ところが、今、そんなことをするお父さん大多数を占めるとは思えない。仮に自分が子供の頃を20年前と仮定した場合、今日まで、どういった時代の変化があったかと考えてみると、サッカーを初めてとして、野球に限らずさまざまな選択肢ができた訳で、何もナイターなんて見る事ないという時代になっていると言わざる終えない。ただ、これに気がついている人がどれくらいいるかというオペレーション側の問題がある。セの球団も「巨人戦があるから」の理由で、ズルズルここまで来たという事は、言い方が悪いが殿様商売と言うしかないのではないか。
巨人戦の視聴率を『ある基準値』と考え、またそれ以上のカードが日本のプロ野球に存在しないとすると、日本プロ野球のテレビにおける市場価値というのは、実はオペレーション側も、観ている側も思った以上に下落しているという事を認識するべきだろう。確かに球場に行く人は増えているかも知れないが、これは仮説ではあるが、視聴率が下落しても観客動員は、微増しているという事は、
(1) 年に数回行く人が、まったくいかなくなった
(2) 年に数回しか行かなかった人が、何度も行くようになった
という図式ではないかと思う。(2)が(1)を上回っていればという思われるが、実はそうではなくて、どんどん「行く人」と「行かない人」が乖離し始めてるという現象がおきている。つまりはリピーターは何度も行くが、新規顧客が減少しているという事。リピーターは増えることがないので、行かなくなってしまえば、それで終わり。しかし新規顧客の場合は、それだけパイが広がる可能性があるという事。リピーターが多いという事は、固定の顧客の確保という側面では成功しているが、どんどんとマーケットとして縮小傾向になって行くという事も忘れてはならない。
今日の横浜対巨人の試合は、BS-iで見ていたのだが「プロ野球を見たいのなら、自分で金を払って、設備を整えて、毎月、視聴料を払え」という暗示ではないかと感じる。時代の変化といってしまえば、それまでだが、社会が再びプロ野球という興行を迎合するようにするのが、オペレーション側の急務ではないかと思う。
手を繋いでゴールしましょう
2006年6月27日 日常日曜日にバーベキューをしながら、友人とワールドカップの話になったのだが、最近、友人が見たテレビでは
「日本が決定的なチャンスでシュートを打たずに
ひたすらパスを回しているのは、順位のつけない
運動会が実施されているような教育方針が悪い」
と言ったコメンテーターがいたらしい。ほとんど「風がふけば桶屋が儲かる」レベルの話。もしかしたら、コンマ数パーセントは、原因としてあるかとは思うが、かなり飛躍しすぎ。
シュートの話はともかくとして、確かに以前、AERA(だったと思う)で「50mなどは皆で手をついなでゴールする」という記事を読んだことがある。しかも、それらは児童・生徒のためではなく、父兄のためとすら書いてあった。ようするに「自分の子がドベになって恥をかかせたくない」さらに踏み込むと「子供のドベは自分が恥ずかしい」という論法で、これを幼稚園・保育園に要求し、父兄の隷属となっているという図式。にわかに信じがたい話だ。
何日か前のサッカーの話でも書いたが、これでは運動会が誰のために行われているのか分からない。父兄のエゴのため、本来、児童や生徒が幼稚園なり小学校なりで、経験しなければならない事、すなわち、順位付によって、下位の者が培われる努力であったり、上位の者が、負かした相手に追い越されないようとする向上心が、ほったらかしとなる。この論法では、算数のテストもできようが、できまいが全員100点という事になるのではないだろうか。これは10年ほど前、自分が簿記1級検定を8回も落ちて9回目に合格した時の話だが、失敗するという事、或いは負けるという事は、決して「負」ばかりではない。そこから、何を得られるか?という大事な宿題を残してくれる。自分の場合は、気がつくのが遅かった感は否めないが、それでも、知らないより知っていた方が全然良い。
日本は幸か不幸か資本主義社会。極めて乱暴な言い方をすれば、何かに目標があって、達成のためには他の者を蹴落とすくらいの気構えでなければ、残れない。さらには、企業のグローバリゼーションは急速に進み、国内ではなく他国と競合しなければならない時代に、隷属した学校が父兄のエゴに付き合って「手をつないでゴールしましょう」などでいいのだろうか。
なんだか、こんなことを書いていると「手を繋いでゴールしましょう」も、今はともかく、10年くらいたてば、結構、大きな原因になっているのではないかとすら思う。
「日本が決定的なチャンスでシュートを打たずに
ひたすらパスを回しているのは、順位のつけない
運動会が実施されているような教育方針が悪い」
と言ったコメンテーターがいたらしい。ほとんど「風がふけば桶屋が儲かる」レベルの話。もしかしたら、コンマ数パーセントは、原因としてあるかとは思うが、かなり飛躍しすぎ。
シュートの話はともかくとして、確かに以前、AERA(だったと思う)で「50mなどは皆で手をついなでゴールする」という記事を読んだことがある。しかも、それらは児童・生徒のためではなく、父兄のためとすら書いてあった。ようするに「自分の子がドベになって恥をかかせたくない」さらに踏み込むと「子供のドベは自分が恥ずかしい」という論法で、これを幼稚園・保育園に要求し、父兄の隷属となっているという図式。にわかに信じがたい話だ。
何日か前のサッカーの話でも書いたが、これでは運動会が誰のために行われているのか分からない。父兄のエゴのため、本来、児童や生徒が幼稚園なり小学校なりで、経験しなければならない事、すなわち、順位付によって、下位の者が培われる努力であったり、上位の者が、負かした相手に追い越されないようとする向上心が、ほったらかしとなる。この論法では、算数のテストもできようが、できまいが全員100点という事になるのではないだろうか。これは10年ほど前、自分が簿記1級検定を8回も落ちて9回目に合格した時の話だが、失敗するという事、或いは負けるという事は、決して「負」ばかりではない。そこから、何を得られるか?という大事な宿題を残してくれる。自分の場合は、気がつくのが遅かった感は否めないが、それでも、知らないより知っていた方が全然良い。
日本は幸か不幸か資本主義社会。極めて乱暴な言い方をすれば、何かに目標があって、達成のためには他の者を蹴落とすくらいの気構えでなければ、残れない。さらには、企業のグローバリゼーションは急速に進み、国内ではなく他国と競合しなければならない時代に、隷属した学校が父兄のエゴに付き合って「手をつないでゴールしましょう」などでいいのだろうか。
なんだか、こんなことを書いていると「手を繋いでゴールしましょう」も、今はともかく、10年くらいたてば、結構、大きな原因になっているのではないかとすら思う。
ひとつ上の、人をわかる力
2006年6月26日 日常http://www.1101.com/essay/index.html
最近、こちらの日記がサボり気味なので、たまにはきちんと書くことにする。久しぶりに、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」より。
文中の中盤から後半にかけて「あー」と感じる。なんだか、自分がblogを書いていることの意味というのは文章力の向上を主に置いているのだが、きっとどこかで、これを主眼におくがばかり、知らず知らずのうちに、回りくどく書いていたなぁと感じる。
時に、何か書こうとする時に、なるべくツッコミを入れにくい文章を書こうと努力しているつもりではあるが、ひょっとしたら、余りに回りくどくて、核心に到達できずに、読み返した時に「えっ、こんなこと書きたかったのだっけ?」と思うこともしばしば。そう考えると、文中にある「竹」か読み手にしてみれば「梅」という事があるではないか。
もう1つ。文章の向上と同時に持続力というのも目的のひとつに掲げているのだが、逆に無理に持続しようとするばかりに打算的になっている傾向があるのではないかと、最近の自分のblogを見て感じる。これでは、余り意味はない。しかし、そう考えるとある程度、パッケージした文章を書くというのはとても難しい。短めの文章で、自分の思っていること、考えていること、さらにロジカルな文章を作り上げるという事は、ほとんど芸術品のようにも思えてきた。
そろそろこのblogも1000回を迎える。多分、1000という字面を見れば、だいたいの人は「すげー」と言ってくれるかも知れないが、もしかしたら、回数はともあれ、人様が褒めてくれるほど、大したことは書いていないのではないか。中身も大事。継続も大事。では、どうしたらよいか?あと何回書けばよいのか?重い重い宿題。ひとつ上どこから、3つも4つ上の話ではないかと感じる
最近、こちらの日記がサボり気味なので、たまにはきちんと書くことにする。久しぶりに、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」より。
文中の中盤から後半にかけて「あー」と感じる。なんだか、自分がblogを書いていることの意味というのは文章力の向上を主に置いているのだが、きっとどこかで、これを主眼におくがばかり、知らず知らずのうちに、回りくどく書いていたなぁと感じる。
時に、何か書こうとする時に、なるべくツッコミを入れにくい文章を書こうと努力しているつもりではあるが、ひょっとしたら、余りに回りくどくて、核心に到達できずに、読み返した時に「えっ、こんなこと書きたかったのだっけ?」と思うこともしばしば。そう考えると、文中にある「竹」か読み手にしてみれば「梅」という事があるではないか。
もう1つ。文章の向上と同時に持続力というのも目的のひとつに掲げているのだが、逆に無理に持続しようとするばかりに打算的になっている傾向があるのではないかと、最近の自分のblogを見て感じる。これでは、余り意味はない。しかし、そう考えるとある程度、パッケージした文章を書くというのはとても難しい。短めの文章で、自分の思っていること、考えていること、さらにロジカルな文章を作り上げるという事は、ほとんど芸術品のようにも思えてきた。
そろそろこのblogも1000回を迎える。多分、1000という字面を見れば、だいたいの人は「すげー」と言ってくれるかも知れないが、もしかしたら、回数はともあれ、人様が褒めてくれるほど、大したことは書いていないのではないか。中身も大事。継続も大事。では、どうしたらよいか?あと何回書けばよいのか?重い重い宿題。ひとつ上どこから、3つも4つ上の話ではないかと感じる
1ヶ月ほど前の追浜で、何でそういう話になったかは、忘れたが、観戦仲間と「皆でバーベキューでもやりますか」という運びとなる。考えてみると、追浜でいつも一緒に見ている人達とは、観戦をするか、飲むかの2つしかイベントがなく(*ごく一部の人とは麻雀もやる)オフにいたっては、会うことすらない人も少なくない。ただ、最近、お子さんがいる方も多くなったし、せっかくだから、近場で横浜/湘南の試合のない日にでもやろうかということで決定。場所は金沢自然公園。先週の月曜日までは、おもっいきりの雨予報だったが、我々の気合勝ちで金曜日から予報が好転。
なんだかんだで集まった人は約20人。
11時くらいから、ひたすら食べ、子供たちは公園内で遊びまくるという、中々、王道のアウトドアスタイル。また、今回のプロジェクトリーダーは「アウトドアスペシャリスト」という事もあり、球場で「まこりーん♪」と叫んでクダ巻いおっさんているのとは違い、かなり機敏な動きを見せつけ「格好いい祭り」で参加者一同盛り上がる。一通り片付けが終われば、私の出番で会費の精算。もう一人の経理所属の参加者と2人で何者も寄せ付けずに精算完了。これくらいは働かないと。
ふと、考えてみると、野球以外は何も関係もない人達が20人も集まって、ワイワイ騒ぐというのは、ほとんどありえない話だし、出会った人達は、みんな、たまたま客席の隣に座っていたとか、どこかの掲示板で知り合ったという人達ばかりだから、縁以外の何者でもないという事を感じると同時に、生活環境が全然違う色々な人と出会えて、ここ数年、かなり楽しませてもらっているなぁと実感する。
参加者の方に色々と話を聞くと、なかなか好評で、次回の開催も決定(エリザベス女王杯付近)。今回の反省点として食材が多かったのと、飲み物が多かっ
たというのがよく分かったので、次回は、それを踏まえて段取りしないと。何はともあれ、参加した皆様、お疲れ様でございました。また遊びましょう。
ちなみに今日は、PATで宝塚記念を買って、1着ディープインパクト、2着バランスオブゲーム、3着総流しの3連単の馬券を買って、参加者のワンセグ携帯で見ていたのだが、一瞬、500倍的中の夢をみたが、残り50mでバランスオブゲームがナリタセンチュリーにクビ差交わされて馬券にならず。ただレース前から「当たったら今日の会費は持て」と、ジャイアンレベル15.8よく言われる理屈に合わない要求をぶつけられていただけに、ハズれてよかったという変な感覚にもなったが。
なんだかんだで集まった人は約20人。
11時くらいから、ひたすら食べ、子供たちは公園内で遊びまくるという、中々、王道のアウトドアスタイル。また、今回のプロジェクトリーダーは「アウトドアスペシャリスト」という事もあり、球場で「まこりーん♪」と叫んでクダ巻いおっさんているのとは違い、かなり機敏な動きを見せつけ「格好いい祭り」で参加者一同盛り上がる。一通り片付けが終われば、私の出番で会費の精算。もう一人の経理所属の参加者と2人で何者も寄せ付けずに精算完了。これくらいは働かないと。
ふと、考えてみると、野球以外は何も関係もない人達が20人も集まって、ワイワイ騒ぐというのは、ほとんどありえない話だし、出会った人達は、みんな、たまたま客席の隣に座っていたとか、どこかの掲示板で知り合ったという人達ばかりだから、縁以外の何者でもないという事を感じると同時に、生活環境が全然違う色々な人と出会えて、ここ数年、かなり楽しませてもらっているなぁと実感する。
参加者の方に色々と話を聞くと、なかなか好評で、次回の開催も決定(エリザベス女王杯付近)。今回の反省点として食材が多かったのと、飲み物が多かっ
たというのがよく分かったので、次回は、それを踏まえて段取りしないと。何はともあれ、参加した皆様、お疲れ様でございました。また遊びましょう。
ちなみに今日は、PATで宝塚記念を買って、1着ディープインパクト、2着バランスオブゲーム、3着総流しの3連単の馬券を買って、参加者のワンセグ携帯で見ていたのだが、一瞬、500倍的中の夢をみたが、残り50mでバランスオブゲームがナリタセンチュリーにクビ差交わされて馬券にならず。ただレース前から「当たったら今日の会費は持て」と、ジャイアンレベル15.8よく言われる理屈に合わない要求をぶつけられていただけに、ハズれてよかったという変な感覚にもなったが。
多分、高校1年の時に、同級生の勧め読んだのが最初だと記憶している。当時を振り返れば、アニメは飽きてきた年齢だし、かといってもドラマはサラサラ見る気もない自分にしてみれば、極めて壮大なストーリーで、ほとんど戦いの話だから、ちゃらい話もなく、相当インパクトがあった。しかし、さすが登場人物が3000人とも言われる作品のストーリーを網羅することは不可能で、20歳くらいまでの間に、吉川英治三国志を都合3回読んだと記憶している。
友人のも三国志好きがたくさんいるし、彼らは「吉川三国志は○○だけど、正史だとこうなんだよね〜」的なことを言われるが、そこまで掘り下げることもなく、今ある情報量で十分おなか一杯。それくらいのトーンで十分。
本(作品)というのは、一発、どこかで衝撃的な作品に出会うと、考え方が変わる事が多い。高校時代に読み、今も時々、本棚から漁っては読んでいるところのを考えていると、国語の教科書より教科書で、歴史の勉強よりも勉強だったと思う。
友人のも三国志好きがたくさんいるし、彼らは「吉川三国志は○○だけど、正史だとこうなんだよね〜」的なことを言われるが、そこまで掘り下げることもなく、今ある情報量で十分おなか一杯。それくらいのトーンで十分。
本(作品)というのは、一発、どこかで衝撃的な作品に出会うと、考え方が変わる事が多い。高校時代に読み、今も時々、本棚から漁っては読んでいるところのを考えていると、国語の教科書より教科書で、歴史の勉強よりも勉強だったと思う。
サッカーの話をやいのやいのというつもりはないのだが、今朝のブラジル戦は予想通りというべきか日本が大敗。マスコミも商売であるから、どんなに低い確率でも予選突破の可能性がある以上は、相手がブラジルだろうとアルゼンチンであろうと「勝てる!(かもしれない)」くらいのことは書かなければならない。もちろん、一部の世論はこれに乗る訳で、とある新聞が「この馬の調教は強烈」みたい事を書けば、馬券を買う人が飛びついて、結果負ける的な話と、同じようなことになる。
で、ブラジル戦云々より、試合後の
中田英選手のインタビューが気にかかる。
何度かそれっぽい会話を繰り返して、途中で、同選手が「話聞いています?」と切り返す。雰囲気的はかなり悪い状況。感覚として「感じ悪い」と思ったのだが、サッカー好きの人の話を聞けば、サッカー側から見たマスコミというはのは、余りよい関係ではないという事を聞く。
これを考えてみると、サッカーを知らない人間は「感じ悪い」と思っても、サッカーをよく知る人からすれば
インタビュアーは何聞いているんだ!
という意見も出ても不思議ではない。
マスコミという商売を考えてみた時に、最近、よく思うのが、活字になって、入ってくる情報というのは、例えば新聞なら、その新聞社が保証しているという面もあるだろうから「正しい」という認識の下、無意識のうちに読んでいるという事が多い。無論、テレビも然り。もちろん、新聞/テレビの好き嫌いは別として。しかし、書いてあることは1であっても、マスコミというくらいだから、読む人は山ほどいる。中にはマスコミの書かれていることより、精度の高い情報を持っている人だっているはず。という事を考えると、確かに情報精度の打率は高いかも知れないが、必ずしも、正しいことを書いてあるかといえば、そうでもないことがあるのではないか。それに商売である以上は、書いている人の主観も入る訳なので、その情報が「濁る」こともよくあるはずだ。
これに対して、中田選手は、イカレポンチの質問(と思われる)に対して「話聞いています?」の切り替えしをした時に、観ている側の受け取り方を考えたのだろうかと思う。多分、サッカーを普段見ない人にとっては、私と同じように「感じ悪い」と思った人が大勢いるのではないか。しかしながら、問題は、肯定的、否定的な意見に関わらず、聞く方も聞かれる方も、メディアに載る以上は、意識する必要があるのではないかと感じる。
で、ブラジル戦云々より、試合後の
中田英選手のインタビューが気にかかる。
何度かそれっぽい会話を繰り返して、途中で、同選手が「話聞いています?」と切り返す。雰囲気的はかなり悪い状況。感覚として「感じ悪い」と思ったのだが、サッカー好きの人の話を聞けば、サッカー側から見たマスコミというはのは、余りよい関係ではないという事を聞く。
これを考えてみると、サッカーを知らない人間は「感じ悪い」と思っても、サッカーをよく知る人からすれば
インタビュアーは何聞いているんだ!
という意見も出ても不思議ではない。
マスコミという商売を考えてみた時に、最近、よく思うのが、活字になって、入ってくる情報というのは、例えば新聞なら、その新聞社が保証しているという面もあるだろうから「正しい」という認識の下、無意識のうちに読んでいるという事が多い。無論、テレビも然り。もちろん、新聞/テレビの好き嫌いは別として。しかし、書いてあることは1であっても、マスコミというくらいだから、読む人は山ほどいる。中にはマスコミの書かれていることより、精度の高い情報を持っている人だっているはず。という事を考えると、確かに情報精度の打率は高いかも知れないが、必ずしも、正しいことを書いてあるかといえば、そうでもないことがあるのではないか。それに商売である以上は、書いている人の主観も入る訳なので、その情報が「濁る」こともよくあるはずだ。
これに対して、中田選手は、イカレポンチの質問(と思われる)に対して「話聞いています?」の切り替えしをした時に、観ている側の受け取り方を考えたのだろうかと思う。多分、サッカーを普段見ない人にとっては、私と同じように「感じ悪い」と思った人が大勢いるのではないか。しかしながら、問題は、肯定的、否定的な意見に関わらず、聞く方も聞かれる方も、メディアに載る以上は、意識する必要があるのではないかと感じる。
とある著名人の日記に
『どうせ爆睡するのだからロザもハザも関係ない』
と書いてあった。文脈からいって普通車・グリーン車のことだと類推できるが、これって鉄用語か?と鉄系の人に聞いてみると、
ロ=グリーン車・A寝台 ハ=普通車・B寝台
のコトで「ザ」が付けば座席のコトになります。
元は1等〜3等を順に「イロハ」と付けたのが始まり。
とのこと。つまり、現在のグリーン車というのは2等車扱いという事になる。とるに足らない話ではあるが、何だか得した気分になった。
『どうせ爆睡するのだからロザもハザも関係ない』
と書いてあった。文脈からいって普通車・グリーン車のことだと類推できるが、これって鉄用語か?と鉄系の人に聞いてみると、
ロ=グリーン車・A寝台 ハ=普通車・B寝台
のコトで「ザ」が付けば座席のコトになります。
元は1等〜3等を順に「イロハ」と付けたのが始まり。
とのこと。つまり、現在のグリーン車というのは2等車扱いという事になる。とるに足らない話ではあるが、何だか得した気分になった。
最近仕入れた情報。おそらく98%くらいの方が2行読んでパスするのではないかと思う。
91年12月22日、両国国技館ではUWFインターナショナルの興行が行われ、メインイベントで
高田延彦 vs トレバー・バービック
がの試合が行われた。トレバー・バービックといえばWBC世界ヘビー級タイトルにも就いたことがあるボクサーで、高田の異種格闘技戦を受けた格好になる。この試合は、開始早々から、高田がバービックにガンガン、ローキックを浴びせる展開となる。もちろなバービックはボクサーだからローキックなど受けたことがない。ついには、攻撃に耐えかねた1ラウンドで試合放棄。これに両国国技館は、怒号が飛び交う暴動寸前。そんな怒号の中
ダイユウサクが悪い!
と叫んだ奴がいるそうだ。折りしも91年12月22日は中山競馬場で有馬記念が行われ熊沢騎手騎乗の「あっと驚く」ダイユウサクが、圧倒的な一番人気のメジロマックイーンを負かした日。叫んだ奴は有馬記念で相当、溶けて両国国技館に行ったのだろうな。
91年12月22日、両国国技館ではUWFインターナショナルの興行が行われ、メインイベントで
高田延彦 vs トレバー・バービック
がの試合が行われた。トレバー・バービックといえばWBC世界ヘビー級タイトルにも就いたことがあるボクサーで、高田の異種格闘技戦を受けた格好になる。この試合は、開始早々から、高田がバービックにガンガン、ローキックを浴びせる展開となる。もちろなバービックはボクサーだからローキックなど受けたことがない。ついには、攻撃に耐えかねた1ラウンドで試合放棄。これに両国国技館は、怒号が飛び交う暴動寸前。そんな怒号の中
ダイユウサクが悪い!
と叫んだ奴がいるそうだ。折りしも91年12月22日は中山競馬場で有馬記念が行われ熊沢騎手騎乗の「あっと驚く」ダイユウサクが、圧倒的な一番人気のメジロマックイーンを負かした日。叫んだ奴は有馬記念で相当、溶けて両国国技館に行ったのだろうな。
サッカークラブは誰のもの?
2006年6月20日 日常おととい、お子さんが地域のサッカークラブに入っている方と話す機会があった。といっても「サッカーが・・」というより、親御さん同士のコンセンサスをとるのが大変という話題が主。と、今日、となりの部署の次長とワールドカップの話が波及し、この話をしたところ、次長のお子さんも去年までサッカーをやっており、まったく同じような問題があったという。
次長曰く、当番制度やら、遠征などの移動など、色々と気苦労が多いのもさる方ながら、何より、父兄の方々は次第にグループ分けされて、往々にしてレギュラークラス(上手い子)の親御さんに発言権が出てくるようになる。しかしながら、各家庭とも色々と事情もあるので、中々、当番など積極的に参加できないという親御さんもいる。となると、中心的に活動している親御さん達とは、どんどん乖離してしまうという図式ができあがるとか。この明らかに良いとは言えない話が、大人の世界だけで収まっているのであればいいのだが、どうやら、それが元で実際にプレイしている子供同士にも波及し、つまらないケンカになったり、いじめたりというのが出てきているらしい。言ってしまえば、子供がサッカーをしたいという中に、親御さんが、かき回しているといるとも思える。これでは、サッカークラブは誰のもの?と思ったりもするのだが・・・
主役は実際にサッカーをするのは子供達であるから、親御さんは、それをサポートするのが一番大事である事を認識して、その上で、各家庭で色々な事情がある(行きたくても仕事でいけないとか)という「やさしさ」を持つべきではないかと次長の話を聞きながら思う。と、自分にとって日本とアルゼンチンくらい遠い話にあえてマトモな意見を言ってみたりする(*実際に苦労されている方、すみません)
似たような話で、以前、となりの部署で、少年野球のコーチ経験者の方がいたのだが「なんでウチの子出さないのよ」的な起用法まで、やんや言う親御さんもいて、毎回、ケンカしていたそうだ。こういう世界は実際、中にいないだけに難しいですな。
次長曰く、当番制度やら、遠征などの移動など、色々と気苦労が多いのもさる方ながら、何より、父兄の方々は次第にグループ分けされて、往々にしてレギュラークラス(上手い子)の親御さんに発言権が出てくるようになる。しかしながら、各家庭とも色々と事情もあるので、中々、当番など積極的に参加できないという親御さんもいる。となると、中心的に活動している親御さん達とは、どんどん乖離してしまうという図式ができあがるとか。この明らかに良いとは言えない話が、大人の世界だけで収まっているのであればいいのだが、どうやら、それが元で実際にプレイしている子供同士にも波及し、つまらないケンカになったり、いじめたりというのが出てきているらしい。言ってしまえば、子供がサッカーをしたいという中に、親御さんが、かき回しているといるとも思える。これでは、サッカークラブは誰のもの?と思ったりもするのだが・・・
主役は実際にサッカーをするのは子供達であるから、親御さんは、それをサポートするのが一番大事である事を認識して、その上で、各家庭で色々な事情がある(行きたくても仕事でいけないとか)という「やさしさ」を持つべきではないかと次長の話を聞きながら思う。と、自分にとって日本とアルゼンチンくらい遠い話にあえてマトモな意見を言ってみたりする(*実際に苦労されている方、すみません)
似たような話で、以前、となりの部署で、少年野球のコーチ経験者の方がいたのだが「なんでウチの子出さないのよ」的な起用法まで、やんや言う親御さんもいて、毎回、ケンカしていたそうだ。こういう世界は実際、中にいないだけに難しいですな。
経理の仕事というのは、月末・月初が忙しい。おそらくどこの会社でも同じではないかと思う。という事で、今週はルーチンワークがあるにせよ、それ以外は、比較的、ヒマな日が多そう。ただ仕事である以上は、ぼっーとしている訳にも行かず、何か仕事をしなければならないのだが、この時期することといえば、ファイル整理。経理の場合、1年前の資料をひっぱり出すという事はよくある。そんな時は、往々にして書類がない(違うファイルにファイリングされている)という事が多い。よって、きちんの時系列にそろえるという事に徹する。
結局、経理の仕事というのは、ファイリングが仕事の成果を左右する。もちろん、業務が多忙な時、どうしてもファイリングが疎かになることが多い。そんな時のため備えておくこととする。地味だが結構、重要な業務。
結局、経理の仕事というのは、ファイリングが仕事の成果を左右する。もちろん、業務が多忙な時、どうしてもファイリングが疎かになることが多い。そんな時のため備えておくこととする。地味だが結構、重要な業務。