中学入試

2006年3月30日 日常
隣の部の次長と昼食。次長のお子さんは、今年、私学の中学に合格したそうで、その話を色々と聞かせてもらう。土地柄かもしれないが、最近の小学生は結構、中学受験をするらしい。もれなくついてくるのが、気合が入りまくるお母さん達。次長が言うには

 どこどこさんの所のお子さんは、
 ○○中学がダメだったみたい

というようなネガティブトークがあらゆる所で話題の中心になっているそうだ。また、小学校の低学年からずっと中学受験のために勉強してきて、受けた学校が全滅だったという子もいるとか。次長曰く、とても見ていられないとのこと。12歳くらいの子にとっては、それはそれはショックだと思う。本人にとっては、

 自分の人格まで否定される

くらいの勢いでいるのではないかと思ったりもする。決してそんなことはないのだが、相当辛いと思うし、しばらくは、引きずったままではないだろうか。私学が悪いとは思わないが、もう少しラフな環境で受験させてもいいのではないかと思う。

鈴木尚典

2006年3月29日 日常
95年7月16日
横浜ベイスターズ 対 読売巨人軍
横浜スタジアム

9回裏二死ランナーなし。6-4で巨人リード。さすがに勝負は決まったかに思われたが、石井琢郎がライト前、波留の内野安打で二死一、二塁。打席の鈴木尚典は巨人・木田からセンターバックスクリーンへ逆転サヨナラ3ラン。

この試合、平塚のラーメン屋から友達の家まで車を走らせながら、ラジオで聞いていたのを今でも覚えている。当時はインターネットもほとんど普及していないから、ベイスターズの情報源といえば「月刊ベイスターズ」くらい。そこで何度か、ファーム情報などで鈴木尚典という選手を目にしていたが、きっちり認識したのは、この試合から。当時の普通のベイスターズファンは皆、そうだったと思う。

この年から98年横浜優勝までの鈴木尚典は本当にすごかった。打率とか、打点とかホームラン数というのではなく印象に残っているのが、まっすぐ猛烈な勢いのライナーで、ヒットになっていくという事。またホームランは放物線ではなく、多くが低い弾道で、ぐんぐん伸びて行きスタンドに突き刺さる。そして「ここ」というときには、本当によく打っていた。

散々、なんやかんやと同選手には悪態をついているが、鈴木尚典は自分と同じ歳で地元・横浜高校出身だから、他の選手に比べても余計に思い入れがある。これはワタシと同世代で、弱くて弱くて日本人の長距離砲が育たない土壌の大洋から応援している人は、同じように悪態をつきながらも、冒頭のサヨナラ3ラン、98年優勝直前9月29日・神宮で川崎から打った勝ち越し3ラン、日本シリーズ第一戦の第一打席のタイムリーなど、ハッキリ覚えており、そして、みんなして「ダメだ、ダメだ」と言いながら、本当は復活してくれと切に願っているはず。

今朝、鈴木尚典は94年以来12年ぶりのファームスタートであるとの報道を目にした。95年〜98年くらいに活躍をしろとは言えないが、以前のような鋭いライナーの打球を見てみたい。
昨今、世間では、やれPRIDEだのK−1だのと言っているが、個人的にはプロレスを超えるものではない。それだけプロレスは素晴らしいと思う。よく、プロレスを見ない人は「シナリオがあるのでしょ?」「八百長」といった具合なことを言うが、真のプロレスファンとは、そんな陳腐な議論を超えたものを見に会場に行っている。結局、勝ち負けまでしか思考が働かない人には分からない世界。

かつて、故ジャイアント馬場さんが、

 2人のレスラーがリングに対峙して、ゴングが鳴る。
 リング中央にレスラーいて、もうひとりのレスラーが、
 その周りを回っている。この場合、どちらが強く見えるか?

という事を言ったことがある。それが何であるかという事を実際に会場やテレビで確認することにプロレスは集約される。各々のレスラーは、個々に得意技を持ち合ってぶつかりあう。まさに長所と長所のぶつかり合い。仮にプロレスを語る上で、勝敗だけでプロレス、プロレスラーの優越を語ろうとするのは不毛であり、余り意味もない。

例えば、奇術やマジックを見て「おー、すごい」と思うか「どうせタネがあるのだろう」と思うか。プロレスも然り。真にスゴイものというのは、それ以上の説明はいらい。

アイドルタイム

2006年3月27日 日常
あらかた、世間の学校の卒業式・終業式は終わったと思われる。つまり来るべき4月に新たな生活が始る人のためのアイドルタイムのような時期だ。うちの会社は12月決算だし、新入社員もほとんど入ってこないので、ほとんど感じないのだが、通勤の行き帰りなどは、学生がいない分、心持ち空いているよう気もする。

過去、いくつか学校を卒業している。つまりはこのアイドルタイムを何度か経験しているのだが、実際、この時期に何ができるかと言われても、バイトくらいで思い当たってするべき事はない。ただ働き出してみると、春休みという言葉に非常にうらやましく思われる。確かに我々には有給休暇というものが存在するが、さりとて、何もしないで休むという事は、ほとんどないし、やっぱり心のどこかで会社のことが気にかかったりもする。結局の所は環境に左右されて「まったく何もしなくてよい」というような時間は、ほとんどないのではないかと思う。

来月より生活環境が変わる人達へ。
このアイドルタイムが、有効であったかなかったという事よりも、しばらく訪れることのないアイドルタイムをゆっくり過ごすことをオススメしたい。特に4月より働き出す人にしてみれば、本当の意味での最後の休みかもしれないし、何もしないというのは、実は一番贅沢な休みの使い方。過ぎてみないと分からない話でもあるのだけど。

価値

2006年3月26日 日常
(例1)
とある電話局に電話をかけなければならないのだが、電話番号が分からない。仕方なく#104に電話をかける。当然、案内料金がかかる。

(例2)
デパートに行き、ネクタイ売り場を探したのだが、見つからない。仕方なしに、総合受付のお姉さんに尋ねる。勿論、無料。無事にネクタイ売り場が見つかり、購入することができた。

この2つの例は、どちらの方が、得しているか?損をしているか?

2つとも大雑把の例示だと分からないが、確実に1つ言えることは、どちらももれなく出費はしているという事。総合受付のお姉さんには、お金を払っていないが、何故、双方出費しているか。答えは簡単。ネクタイ代の中に案内代、つまりは、お姉さんの給与等も入っているから。視覚だけで、判断したのでは、決して物の価値というは判断できない例である。

自分の財布から支払われる対価というのは、商品やサービス自体の原価の他に、他の原価要素も含まれているという事を認識する必要がある。つまりは、物の値段というのは、本当に安いか高いかは、実際に財布から出る金だけではなく、他の要素も鑑みる必要がある。これが本当の価値というもの。

昔、とある会社の社長(現在1部上場企業)の話を聞いた事があるの。大事な客先に向かう途中、突然の雨が降ってきた。近くに傘が売っているが、1本5000円もする。これを買うか否か?と言った時、さてどうするか。この社長は、迷わず買うと判断。理由は雨という偶発的事象と大事な顧客を勘案した時、この5000円は安いと踏むらしい。これが彼の価値だという。昔は、金持ちの意見だと思ってきたのだが、世の中の仕組みを少し分かった今となっては、おぼろげながら、この話が分かってきた。金は価値のあるものに使う。これが一番、正しい使い方。
横須賀で一緒に野球を見ているメンバーは、毎年少しずつ毎年増えていき、減ることは余りない。集まる人達にはお子さんがいる方もいるのだが、毎年、開幕戦で半年ぶりに顔をあわせると「もう、5年生?」といった具合に、知らない間にどんどん成長していく。余所の家の子は成長が本当に早い。ついこの前、1年生くらいだと思っていたのだが。しかし、よく考えてみれば、仮に5年もずっと一緒に観戦していれば、間違いなく5歳は歳をとる訳で、別におかしい話でも何でもない。時間は誰にでも平等に流れている。しかし、ぼっーとしていると、自分や周りが歳をとっていくことを忘れがちになる。

よく歳をとると、時間が流れるのが早くなるというが、本当にその通りではないだろうか。多くを吸収していて経験もしているが、反面、多くを忘れていくという事でもある。ただ、人の記憶の中には「忘れたい」と真に思うという事は、なかなか、忘れられない。従って「忘れたい」と思うことを極力少なくする努力は日々できるのではなかな。

理解

2006年3月24日 日常
前にどこかで書いたが、例えば、一方的に人を好きになり、思いこがれて、いざ告白したところ、

 そんなつもりはない
 意識していなかった

などと冷たくあしらわれるという事は、そこいらに転がっている話。場合によって、玉砕した方は、一転して「冷たい人だ」「そんな人だとは思わなかった」とのような事を思ったり、実際に言ったりする。さらには、玉砕した友達も「あいつはひどい奴だ」と同調するケースもままある。

ただ、考えてみれば、いきなりそんな事を言われれば、ためらうのが当然であり、出てくる言葉も意外と大雑把になるケースが多い。また、それまで、そんなに交流がなかった人だと、余計に「なんでそんな事言うのだ」くらいの気持ちになったとしてもおかしくない。いずれにしても受け手側からすれば「ひどい言い方」と受け取れるという事。

 ただ、断った方は、本当にひどい人なのか?

という事を考えてみる。「受け入れればいい人」で、「受け入れなければひどい人」という二極だけの考え方は、やはり間違っているだろう。物事には、それぞれ個々に温度差というものが存在しているからいる。故に言う方としてみれば、かなり音頭が高くなったと仮定した場合、相思相愛ならめでたし、めでたしの話だが、往々にして言われる方はSurprise。まったくの常温か、場合によっては氷点下というケースだって考えられる。

実は好き・嫌いの話だけではなく、日常(仕事や友人)の話でもよくあることで、相手の温度を常に理解する必要がある。余り関わりがない人であれば、なお必要。いくつか自分の引き出しから、相手の状態を察知して、相手がどれくらいの温度であるかを察知するという事は、コミュニュケーションの初動としてとても重要。しかし、これは今から、やろうと思っても出来ない事で、ある程度、人と接していないと身につくスキルではない。つまりは経験しなければならない。当たり前のような話だが、実は見落としがちな話。理解できないというのは、自分の経験不足という事も、少しは考慮しなければならないと最近思う。
オフコースといえば、1989年に解散しているので、自分が高校2年の時となる。従って、コンサートに行ったとか、ガンガンLPを買ったなどの経験はなく、タイムリーとはいえない。では、まったく知らないかとなるとそうではなく、自分達より少し上のお兄さん・お姉さんがタイムリーなので、ちょうどステレオだのAVだのに興味を持ち始める年齢に於ては、親戚のお兄さんだとか、近所のお兄さんだとかが、もれなく持っていたのが、このオフコースのLPやテープ。また、中学などの合唱コンクールの自由曲などは、担任が「オフコース世代」という人が多く、余り生徒の意見など関係なく、多く選曲されていたいたような気もする。従って、自ら追い求めて知った、聴いたという訳ではなく、降ってきたというのに近い。つまりはコアなオフコース世代ではないが「オフコースの曲は、そこそこ知っているよ」の自分として、数多良い曲が多いが、一番好きなタイトルが「言葉にできない」(1982年)。よく詩を見てみると大したことは書いていないのだが、

 結婚、卒業、好き、出会う、別れる

などと行ったイベントには、この曲が抜群。特にこの時期には一番、良いのではないかと思う。どこかの保険屋のCMにこの曲が使われていたが画像とのコンビネーションが絶妙としかいいようがない。そもそも「言葉にできない」とタイトルで詩を書くのだから、アイデアというかセンスがスゴイ。

今日、初めて知ったのだが、of course(もちろん、その通り)ではなく off course(道を外れる)という意味だそうだ。そういえば昔、Officeが青山にあった頃、外苑前のスターバックスの店外で小田和正がコーヒーを飲んでいるのを目撃したことがある。
WBCは見事に日本が世界一となったのだが、気になる事が1つ。 大塚投手が最後のバッターを三振に討ち取り、見事、王ジャパンが世界一に。最後は、例によって王監督の胴上げが行われた。
 
 
 しかし、胴上げというのは日本以外でもあるのだろうか。
 例えばメジャーリーグのワールドシリーズで優勝したチームの
 監督が胴上げされているというシーンは記憶にないし、
 サッカーのワールドカップで優勝したチームが胴上げ
 されているのも見たことがない。
 
 
では、野球以外で胴上げされるというのはどのような時か?と考えてみると新郎、受験に合格した人というのが思いつく。
という事で、Wikipediaで「胴上げ」を引いてみると説としては、
長野県の善光寺が発祥とあるのみ。やはり日本だけ??

仮に「胴上げが」日本固有の文化だとすると、王監督が宙を
舞っている映像を世界中の人達が見て「何をやっているのだ?」と 思ったに違いない。
夕方、友人と食事をするため、関内まで車の中で聞いていたラジオにて。

 箸を使う国というのは、中国、韓国、日本といったアジアの国々
 しかし、自分の固有の「箸」があるのは日本の独自の文化
 (自分の箸→お父さんの箸、お母さんの箸)

なるほど。たしかに中国も韓国も割り箸というものはなく、他の食器同様に、洗ったものが出てくる。さらに

 茶碗もお父さんの茶碗、お母さんの茶碗といった具合に
 固有の食器が存在する。これを混同すると、だいたいの人は
 違和感・嫌悪感を感じる。

確かにその通り。

 しかし、スプーンやフォーク、またはお皿、
 小鉢といったものは固有のものではない。

茶碗とお箸は自分以外の物だと相当気になるが、フォークやスプーンは「別に何でもいいや」というくらいのトーンで食事をしている。不思議な話といえば、不思議な話。これは日本特有の文化だろうか。そういえば、洗面台にある口を濯ぐコップは我が家で1つだが、他の家ではどうだろうか。家族分マイコップとかあるのかな?あとバスタオルとか。

余りに普通すぎて、結構、気がつかない話だよな。
土曜日に名作「南極物語」が放映されていたが、当時は気がつかなかった、疑問が1つ浮かびあがった。そもそも、南極物語とは樺太犬15頭が置き去りにされて、約1年後にタロ、ジロの2頭が生き残ったという話。この南極物語は、大半が南極での犬の話。つまりは、人が誰もいない所で、犬がどうやって行きぬいたかという事を描写している作品。

 まてよ。犬しかいない南極で、どうやって、
 ストーリーが出来上がったのだ?

という疑問浮上。という事で、南極物語大好きの同僚に質問。同僚曰く

 作り話

南極なだけに問題は見事、氷解。ちなみに実話だとタロとジロウの2頭はペンギンを襲撃している所を隊員に発見されたのだが、すっかり飼い主だという事を忘れていたらしい。

もう一つ。タイタニック。船が沈んだのは事実としても、そもそもジャックとローズというのは何者なんだ。最初のシーンでババアが出てきて語り出し、最後もババアがブルーダイヤ(注:金銀パールプレゼントとは関係ありません)を海に捨てて終わるという事を考えると

 ババアのウソ話。またはババアの戯言

という可能性も捨て切れない。確かジャックはポーカーに勝ってタイタニックに乗り込むのだが、これは運がいいのか悪いのか。しかも幾度となくローズを助けた挙句、最後は、そのローズによって海中深くに沈められてしまうというのは、交尾の後のカマキリみたいなものだな。ちなみに、タイタニックの船首でジャックがローズを抱えて「空を飛んでいるみたい」などと抜かしているが、船首は立入禁止区域で、それを船長がブリッジから紅茶を飲みながら、眺めているというのは

 安全航行義務違反

の他ならない。ちなみに、この映画が放映されて真似をして5人が実際に落ちて死んでいるらしい。

月曜日のチャットにて、参加者の一人曰く

 ちびまる子ちゃんの方が事実に近い

との発言。実に鋭い指摘。

今日のプール

2006年3月19日 日常
・平泳ぎ200M
・クロール300M
・ウォーキング50分

友人と行ったのだが、時間制限がありショートプログラム。クロールはバタ足なしで、泳ぐのが慣れてきた感じ。ウォーキングもいつもより、やや早足。ちょっとスピードを変えただけでも50分もやると結構、疲労度が違う。ちなみに、泳いだ次の週はやはり体調が良い。

今日の備忘

2006年3月18日 日常
◆ 知名度は高いのに余り行った事がないと思われる場所

・南大東島
・足摺岬
2週間ほど前に、ファイティングネットワーク・リングスのファンの友達(女性)より電話が入る。彼女は大阪在住だったが、結婚して東京に引っ越したとの近況報告。ところが、話しているうちに3月10日に再び大阪に帰るとの事。何故かと聞くと

 サタうま(関西ローカルの競馬番組)の100万円夢企画に当選し
 10日からドバイに行ってランフランコ・デットーリに会ってくる

という。

 ちょっと待て。ランフランコ・デットーリに会うだと!!

どうやら番組の企画らしいが、ともあれ招待でドバイにいけるとは実にうらやましい。さらには世界的ジョッキー、ランフランコ・デットーリに会えるとは。すごすぎる。ランフランコといえば、こんな話を聞いた事がある。

-----------

ランフランコ・デットーリの父、ジャンフランコ・デットーリは第2回のジャパンカップに来日経験があるものの15頭立の12着に惨敗した。で、ジャンフランコ・デットーリは来日中、日本で初めてビデオデッキ買い帰国し、自分が騎乗したジャパンカップを息子に見せたところ、ランフランコは親父の惨敗っぷりに情けなくなり「俺は将来、ジャパンカップで勝つ」「ジャパンカップは特別なレース」「海外のレースで一番勝ちたいレースはジャパンカップ」になった。

-----------

この話が本当かどうか、確かめて欲しいとお願いをしておいた。そして今日の夜、彼女から電話がかかってきて、この話の真意を聞く事ができた。結論から言うと、話は、ほとんど正解。ただ、親父の惨敗が情けなくなったのではなく、初めて見たビデオに感激し、何度も見ているうちにランフランコ少年は日本のジャパンカップというレースが非常に印象に残ったという事は事実らしい。

思わぬ所で、ランフランコの話の真意が聞ける事ができそうだ。ちなみに英国にあるランフランコのイタリアンリストランは巨大なミラーボールがいくつもあるそうだ。

それにしても、この番組が関東で見られないの残念。関西在住のマイミクの皆様、又は「サタうま」を見られる地域にお住まいの皆様、番組を見たらご感想をお願いします。

ハイテク寿司屋

2006年3月16日 日常
横浜のヨドバシカメラで買い物も済ませ、晩飯は何を食べようかと考えたが、ヨドバシには8階と地下2階とレストラン街がある。ふらっと回っているとカウンターだけの寿司屋発見。しかし普通の寿司屋と違い、席ごとにタッチパネルのモニタがある。回転寿司の『くら寿司』だったかも同じような仕組みでタッチパネルのモニタで発注。詳細は下記のシステムフロー箇条書きの通り。

1.客はタッチパネルから『にぎり』を選び発注。

2.発注された注文はリアルタイムに板前の前のモニタ(画像参照)に表示

3.板前は注文通りに握り発注を受けたカウンターに納める。

4.客は発注したものと相違ないか確認して食べる。

5.板前は客に『ゲタ』に『にぎり』がないことを確認したら『完了』ボタンを押下。

6.料金が加算される。

7.まだ注文する?YES→1へ、NO→8へ。

8.お客は指定されたカウンターナンバー(ユニーク)を持ちレジへ。

9.店員は客のカウンターナンバーをスキャンし精算。

10.客は『ごちそうさま』、店員は『ありがとうございます』と言う。

(例外処理)
ガリのみ、客は口頭にて板前に発注。

と、ざっとこんな感じ。肝心の味だが、回転寿司と普通の寿司屋の丁度間くらい。まあまあと言ったところか。味はともかく客と板前の距離はカウンターであるから殆ど離れていないにも関わらず、会話はなくひたすら電子音だけが響き渡る寿司屋というのもかなり変。
会社の帰りに思わず衝動買い。最近は、NINTENDO DSがなんちゃんらかんちゃらと言っているが、こちとら、ファミリーコンピューターのコントローラーがゴムのパットからテレビゲームをやっている昭和のゲーマー。無駄にコントローラーを連射し、高橋名人と毛利名人が16連射に圧巻した世代。そして今のゲームと違い、昔のゲーム特有の理不尽な設定に耐えてここに至る。2ちゃんねるで、横浜の多村のことをスペランカーなど言っている輩など、実際にプレイしたことがない奴等ばかりだろう。昭和ゲーマーはリアルタイムである。

で、CAPCOM CLASSICS COLLECTIONには、

 ・1942
 ・1943
 ・1943改
 ・SONSON
 ・むげ丸
 ・魔界村
 ・大魔界村
 ・超魔界村
 ・バリオス
 ・EXED EXES
 ・STREET FIGHTER2
 ・STREET FIGHTER2’
 ・STREET FIGHTER2’ターボ
 ・戦場の狼
 ・戦場の狼2
 ・ガンスモーク
 ・戦いの挽歌
 ・アレスの翼
 ・フォンゴットンワールド
 ・セクションZ
 ・トップシークレット
 ・ファイナルファイト

の22タイトルが1本のROMに入っているという香港の違法CD-ROMみたいなゲーム数。さすがに全部は知らないが、半分くらいはプレイしたことがある。ちなみに今日プレイしたのは、

 ・1943改
 ・大魔界村
 ・STREET FIGHTER2’
 ・戦場の狼

くらい。どれも本当に難しい。というより、いかに今のゲームが生ぬるいかよくわかる。だいたいカプコンのゲームは1人(プレイヤー)vs敵いっぱいという設定。大魔界村なんて真剣にやっても1面のボスにすらたどりつかない。また、スト2に関しては本来はザンギエフ使いだが、さすがにパットがないとスクリューが出ないので、リュウで挑む。このスト2は正気とは思えないようなコマンド入力をしないと技が出ないという敷居の高いゲーム。意外とエドモンド本田は強かった。
(朝鮮日報/日本語版より)

− 米国、日本戦で「厚顔無恥な」詐欺劇 −

米国が世界の野球ファンを相手に厚顔無恥な詐欺劇を繰り広げた。実力では勝てないとでも思ったのだろうか。13日(韓国時間)、米国カリフォルニア州で行われた米国対日本戦で、勝負に決定的な影響を及ぼす「疑わしい判定」が発生した。

3対3で同点8回表、日本は1死満塁で6番岩村がレフトフライを打った。3塁走者の西岡はレフトの ランディー・ウィンが球を取った瞬間、ホームに向かって全力疾走。ウィンがホームに向かって投げた球は大きく外れ、西岡は余裕でホームを踏んだ。日本が貴重な決勝点を決めたと思われた瞬間だった。

米国代表監督が球審に「レフトのグラブにボールが納まる前に3塁ランナーがスタートした」とアピール。3塁審判はレフトの捕球を確認するために外野に向かっており、2塁審判が3塁ランナーの足を見ていた。アピールを受け入れた球審は2塁審判を呼び正確な説明を聞き、これによりセーフの判定が覆された。

これに日本代表王貞治監督が強く抗議したが受け入れられなかった。日本応援団はブーイングを浴びせたが球審の耳には届かなかった。

大会の中継を行うESPNは当時の状況を何度もスロー画面で繰り返し放送した。3塁ランナー西岡は捕球後にスタートを切っていた。明らかな誤審だ。

この試合でアメリカは序盤から日本に主導権を奪われていたため、8回の失点は敗北につながるほかなかった。

世界最強を自負するアメリカが「不当なホームアドバンテージでも勝てるなら厭わない」という本性を見せたわけだ。

---------------------------------------

時勢から言っても最初、抗議に出た日本の王監督のことを揶揄している記事だと思ったが、痛烈にアメリカを批判しているという事が朝鮮日報(韓国)に書かれている。それほどのひどい判定だったという事だ。

時間的に通勤時間中なので、帰宅してから画像は見たのだが、最初はリタッチが早くてアウトになったと聞いていたので、絶対にないプレイとはいいきれないし、アピール・プレイで捕手からサードに送球するという自体は、プロ野球でも、あるにはある(アウトになる事はほとんどない)だから、誤審と聞いて「足が離れたのが早かった」程度で、なんやかんやと言っているのかと思ったのだがエライ違いだった。

「審判の誤審はありえる」と考えいるし「審判は絶対に間違えるな」とも思っていない。そもそも人間が判定している以上、以上、「間違えるな」と言う方が間違えだ。しかし、今回のケースは、間違えなくてもよいケース、あるいは既に完結しているプレイに対して覆すという勘ぐれば、故意といわれても仕方ない前代未聞の信じられない話。報道ではリタッチの裁定は、主審にあるとの主張であるが、それが通ってセーフをアウトにされたのでは野球にならない。
昨日のことではあるが、ホームである大和引地台温水プールの改装工事が終わったとのことで泳ぎに行く。改装工事といって

 どこを改装したんだよ

と言った感じで以前と殆ど変わらず。で、今日のメニューは

平泳ぎ500m
クロール500m
水中ウォーキング1時間(約2キロ)

のフルメニュー。最近サボり気味だったので、これから頑張る。
ヘンな話といえば、この上ないのだが、9月の自分の誕生日に10年から6年間付き合っていた女の子から「お誕生おめでとうメール」が来た。かなり驚いたのだが、それでも「ありがとうメール」を返した後、何度かやりとりをして、お互いの近況を報告。自分はまったく何も変わっていないのだが、彼女の方は、職場の年下の同僚と結婚して、一昨年の11月に子供を生んだと聞いた。そして、昨日、3月11日は、その彼女の誕生日。きっちりメールでお返し。今日になり、彼女から返事が来る。誕生日と言われて一番欲しいものは「一人の時間」だそうだ。24時間子供と一緒で全く自分の時間がないらしい。付き合っているときは散々、わがまま言って、一人でいる時が辛かったらしいと9月のメールで聞いたが、今ではその「一人の時間」が一番欲しいというのも、お互いにとっては何とも皮肉な話ものだと思う。

やっぱり一般的にはヘンな話だと思う。何年も前に別れた彼女(しかも結婚している)から突然、メールが来ること自体、ヘンだが、あれこれお互いの話が出来るというのもかなりヘン。ただ、なんとなく、それが自然に出来たという事は、ヘンではあるが悪いことではないのではなかろうか。こんな話を書けば邪推されても仕方がないのだが、お互いがこれから会うとか、そういったことは全くない。お互いが承知していることだから出来ることだと思う。

誰かに逢えば、必ず別れは来るもの。結果として彼女とは別れてしまったのだが、決して、壮絶な別れ方でもなかったし、お互い他に誰か好きな人が出来たとか、そういった類の別れではない。上手く文字には表現できないのだが、どこかで上手くシンクロできなくなったり、シンパシーを感じられなくなったに過ぎない。それに気がついたのは最近の話。ただ、それだけ。よかったのか悪かったのか聞けば、彼女はめでたく結婚したし、自分はその時のまま。プラスになったかどうか分からないが、お互い決してマイナスになってはいないと思う。そういう別れた方というは、月日がたてば「よかった」という結論に達するのではないかと彼女のメールを見ながら思う。

やっぱり20代の頃は結論を求めすぎという感はある。しかし結論というのもは、その事柄の完結を意味するのであるから、マクドナルドの注文みたいにすぐ出てくることなんて滅多にありえない。1週間後かも知れないし10年後かも知れない。そして、それが正しいかどうかというのは、また別問題。似て非なるものだと思う。今、起きている事象で、今、掲げた結論というのは仮でしかないという事があるという事は常に忘れずにいようと思う。
3月も11日。あと20日もすれば、日本中で、全然違う生活が始る人がたくさんいる。同じ「春」という言葉でくくられても3月と4月では相当違うのではないだろうか。もうここ10年はまったく同じような生活なので「生活が変わる」という実感がまるでない。子供でもいればまた別なのだろうけど。

この時期はいわずと知れた卒業シーズン。昔から余り昔のことはこだわらない性格なのか、いざ、卒業と言われても、学生時代を振り返るということはしなかったし、今も全然しないし、同級生と話ても全然覚えていなは話が多い。そこにいる人達がキライというのではなくて「区切り」という位置づけで、それ以上でもそれ以下でもないという事。その証拠というべきか、いくつか出た学校の卒業アルバムの在り処は1つも知らない。自宅にあるのかどうかも分からない。よって振り返る手段もない。実は写真を撮られるのも余り好きではないので、自分が写っている写真というのは、ほとんどない。なんだからログにしていると、かなり寂しい奴のようだが、まあ、それはそれで、いいのではないかと思う。

何かの歌詞ではないが、過去を振り返るというより「昨日より今日、今日より明日」を考えた方が、メリットとして大きいのではないか。無論、逆の考えを否定するつもりではなく、あくまでも自分の考え。終わってしまった事を糧とするのはアリだと思うが、過去から引き続き行われている事は別として、完結して動かせないものは、もう仕方ないとどこかで思っている。いいのだか悪いのだか分からないが、今、そこそこの友達に恵まれて、何だかんだと週に1回くらいはバカ騒ぎできているのだから、いいのだろうと思う。

例えば卒業アルバムに写っている人で、全然会っていない人、音信が途絶えている人は完結した人。しかし、写っている人で今でも交友がある人というのは決して完結した人ではなくて今もそして、これからも続く人と位置づける。何が言いたいかといえば、完結してしまった人より、今いる人、今から出会うであろう人と、これからを大事にしていく方が時間の使い方としては有意義ではないかと思う。結局はドラえもんでもいない限り、事実は動かせないのだから。

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