疲労

2006年7月28日 日常
水曜日・木曜日と会社が終わってから、追浜ナイターに行ったのだが、今までにない疲労感。とりたてて仕事が忙しかったという訳でもないのだが、球場についた瞬間にどっと疲労感が出る。去年も同じように馬鹿なことをやっていたのだが、やはり年齢のせいか。今週は日曜日にプールに行って、週の初めの方が体のキレもよかったのだが・・・・

今年より来年がよくなるとも思えないので、きっちりと鍛えないとな。
・あとで後悔した
・一番最後
・元旦
・従来から行われていた方法
・白羽の矢が当たった
・誰にでも愛想を振りまく
・怒り心頭に達する

年に何度かニュースになる日本語の使い方。見たところ、自分で使っていると思われるのが「一番最後」という使いまわし。ほとんど気にしていなかったが、確かに一番最後というのは、おかしい言い方。以後は気をつけよう。日本語の乱れ的な話というのは、よく出てくるが、むしろ会話の中に普通に英単語が入ってくるのが、どうかな?と思う。自分も平気で使ってしまうのだが、そちらの方は誰も言わないのが不思議な話。ただ、時代として無理に日本語にする方が無理があるか。

それより「白羽の矢」なんて最近、使うかな?と思う。
http://www.1101.com/essay/index.html

山田ズーニーさんのコラムより。冒頭に書かれている電話が引かれた時に、電話線にお弁当をくくりつけた人がいるという話は知っていた。もちろん、聞けば、ほとんどの人が笑い話となるのだが、今まで考えられなかった遠くの人の声が伝わる「電話」という道具を考えると、やらないにせよ同じくらいの発想かもしれない。

現代版に置き換えると、電話の登場ほど、社会にインパクトを与えたとは思わないが、似たような話だと、やはりメイル、インターネットであろう。例えば携帯電話にメイル機能が付き始めてどれくらいたつだろうか?と考えてみる。恐らく5〜6年くらいだと思うのだが、それまでメイルというのは、パソコンで使うものであって、携帯電話はどこまで行っても電話でしかなかった時代から携帯電話付加価値時代へと突入していき、パソコンを持っていない人、それまでメイルとは無関係だった人が普通にメイルを使う時代となった。

昨今のメイル、インターネットの状況を考えると、相手からメイルで書かれた事、またインターネットで書かれていることを見ると、どうも「100%」と思う節があるのではないかと思っている人が多い。そしてそれらの多くがネガティブ方向に行くケースが多い。だから、余計にこんがらがり、相手とのコミュニケーションが瓦解することが多い。しかし実際はコラムに書かれている通り、人とのコミュニケーションというのは、言葉や文字の他、声の抑揚であったり、声の大小、つや、ハリ、高さ低さがずっとものを言う。メイルやインターネットの世界では、それが存在しない。実はこれを蹴っ飛ばしている人が多いので「100%」と思う人が多いのではないかと思う。

電話という道具が出てきてどれくらい世に普及してきたかは分からないが、お弁当箱は確かに笑い話である。しかし、現在のメイル/インターネットの利用・運用を100年後の人間が見た時には、再びお弁当箱的に笑われる時代が来るのではないかと思う。

サイン

2006年7月25日 日常
当社は印鑑を使うケースというのが、ほとんどない。書類を提出する際、承認する際はサインでプロセスされる。文化の違いと言ってしまえば、それまでだが、印鑑というのは偽造しやすいというのが理由。言われてみれば確かにそうだが、じゃあ、サインは盗用されないのか?と言った場合、当社の本国に印鑑などというものが、存在しないからそもそも議論にすらならないとか。

自分のサインは、昔から漢字にしている。今後も無理にアルファベットで書くつもりもない。一番書いている字が書きやすいに決まっているし、カードもパスポートも全て同じサイン。もうちょっと格好よく言えば、自国の国の文字を大切にしようという気概もある。

ところが、社内の書類は漢字でもかまわないのだが、本国に提出する書類の一部には漢字(英語以外の文字)はサインとして認めないらしい。理由は

 読めないから

という事。しかし、例えアルファベットで書いていても読めないサインは読めないと思うのだが。サインはほとんど図形に近いものだと思っていたのだが、やはり文字はどこまで言っても文字という事なのか?

ナイスネイチャ

2006年7月24日 日常
昨日のGチャンで録画した「栄光の名馬たち ナイスネイチャ」を見る。ナイスネイチャは自分が競馬を始めた頃に走っていた競走馬で、やたら2着、3着が多いブロンズコレクター。たとえシンボリクリスエスが有馬記念を連覇したことを忘れても、ナイスネイチャが3年連続3着という大偉業を達成したことは決して忘れはしないし、この先、有馬記念を3連覇する馬が現れたとしても、3年連続3着になる馬なんて絶対に出てこないだろう。ナイスネイチャは、都合5回、有馬記念に出走しているが、恐らく5年連続で有馬記念に出る事自体、今となっては不可能に近い。

ビデオを見るとナイスネイチャは、メジロマックイーン、メジロパーマー、レガシーワールド、トウカイテイオー、ビワハヤヒデ、ナリタブライアンといった稀代の名馬達と走っているのが、よく分かる。しかも短距離でも中距離でも長距離でも走れば2着、3着、4着を繰り返し8歳(現表記)まで、41戦も走り続けた。G1には縁がなかったが、実に人間味があふれた「いい奴」だったので、ファンが多い。G1勝ちがないにも関わらず「栄光の名馬」として、収録されているという事は、ファンが多いという裏返しともいえる。ビデオを見ると2年7ヶ月ぶりに勝った高松宮杯(当時)のゴール直前では6万大観衆からは拍手が巻き起きていた。そして6回目の有馬記念直前に故障が発生して引退が決定。栗東のトレセンから故郷の北海道に帰る際に、こんなエピソードがあったようだ。

http://www.keibado.com/keibabook/060515/column.html

文中のナイスネイチャの担当厩務員の馬場さんは、ナイスネイチャを語る上ではなくてはならない人。ネイチャが現役時代は「生涯最高の出来」を最低でも4回は発言している。そんな馬場さんも、数年後に交通事故で亡くなっている。

競馬は、ギャンブルと言ってしまえばそれまでで、馬もそのくくりで言ってしまえば、ただの経済動物でしかありえない。ただ、違った側面でいえばナイスネイチャのように、馬券がとれてもとれなくても愛され続ける馬というのは実際にいる訳だ。馬券はとれるに越したことはないが、こういった馬に馬券を投じて「負けちゃったけど、よくがんばったな」と妙に納得してしまう時もある。

乗馬が趣味の友達と、最近、メールでよく話すのだが、本当に馬は見ていて飽きない。パドックなど1日いても飽きることはない。サラブレットとは、走るために「徹底的に改良された」という意味を持つ。彼らはそれを運命と知ってか知らずか、ただ黙々と走る。陳腐な言い方かも知れないが、そういったところも競馬の魅力ともいえる。

野球のない1日

2006年7月23日 日常
ないといってもオールスターがあるのだが、どうも昔みたいに気合を入れてテレビでみようという気にならない。現場に行く機会があれば別なんだろうが。

◆ 競馬

新潟12R サラ系3歳以上500万円下
3連複 1−13−15 3,980円的中

函館9R 函館記念(G3)
3連単 3→4→7 7,350円的中

函館12R 渡島特別 サラ系3歳以上1000万円下
3連単 6→2→4 16,830円的中
3連複 2−4−6  4,800円的中

全部100円ずつの投資で的中。粗利益約23,000円。PAT残高も7万円台まで復活して先週の新潟遠征分捻出。やっぱりローカル競馬は、100円ずつ広く買った方がいいね。G1以外で500円以上馬券を買ったらイカン。ちなみに万券は今年6本目。ヴィクトリアマイル以来、約2ヶ月ぶり。ここのところ、縦目が多かっただけに、雰囲気的に当たるような感じはしたが、今日はGチャンのパドック解説とJRA-VANが大当たりの日。毎回、こうだと助かる。また、JRA公式サイトで、こんなページを開設したようだ。

http://www.jra.go.jp/ensei/index.html

また、別のサイトにてこれを買おうかどうしようか迷っている。

http://navi.jra-van.ne.jp/si/index.shtml

黒・黄鋸歯形・青袖を着て街中歩くというのも、結構、勇気がいると思うが、いずれにしていも長袖だし、買っても着るのは10月過ぎかな。

JRAも売り上げが落ちているだけに、ここで一丁、ハーツクライとディープインパクトにがんばってもらわないとということか?それにしても、去年の有馬記念ではディープの敵役だったハーツクライが、ドバイで圧勝してからというもの、すっかり「がんばれ」モード。ディープが負けた時は、ハーツクライ、ルメールと散々言われてが、ドラマとして競馬の選択肢というのは無限に広がるという事を感じる。

◆ プール

夏休みに入ったのもあってか例によって子供が多い。やはりプールは冬場に限る。メニューは下記の通り

 平泳ぎ 250m
クロール 250m
水中ウォーキング 1時間20分(2.4キロ程度)

コースに人がわんさかいたので、ウォーキングに注力。今日はやたら1時間が短く感じたので、20分追加。先週よりだいいぶ動けるようになる。来週はいけるかどうか分からないので、平日のウォーキングをがんばらないと。

◆ ラーメン

およそ2年ぶりに中村屋。全く並ばず入店。色々といわれているが、まずまずではないかな?結局、テレビ・雑誌で話題になるという事は、それだけ食べに行く人が多いというわけで、感想を言う分母が大きくなる。とすれば連れて「おいしくない」的な意見の分子の数だった多くのなるのだから、仕方ないだろう。そんなに周り言うほどダメラーメンだとは思わないが(画像は特中村だったかな?)

◆ シークワーサージュース

ちょっと前まで、ファミリーマート限定「梅の天然水」を好んで飲んでいたのだが、期間終了となる。今年の夏は梅系の飲み物をやたら飲むのだが「梅の天然水」がなくなると同時に、近くのコンビにに「梅系」の飲み物が消える。代わりに買うのがこれ。セブンイレブンが沖縄キャンペーンだからで、売り出しているのか、こちらでは余りお目にかからないシークワーサージュース。2003年に沖縄に行った際に初めて、このジュースを飲み気にいり、沖縄料理屋に行くと毎度、注文する。若干薄い感じがするが、ペットボトルものだし、まぁ、こんなもんだろう。

三浦大輔

2006年7月22日 日常
昨日のオールスターで、地味に勝利投手&優秀選手に輝いた三浦大輔。なんだかんだと毎年、オールスターに出ているような気がする。

おととい、2月に入社した人事部の人と一緒に昼食をとることとなる。この人事の方は、5月の研修でもご一緒した方で、普段の業務でも、結構難しい仕事を一緒にしているのだが、仕事以外で一緒になるのは初めて。で、この方は奈良出身で、こちらが「ベイスターズファン」と言うと、

 私、奈良県出身で子供の頃、
 三浦大輔と同じ少年野球チームにいました。

とのこと。色々と話を聞くと、その方は三浦より1つ年下で、ポジションはピッチャー。また三浦剛(実弟)もピッチャーでよく一緒に練習したとかで、三浦の実家にも練習しに行った事があるそうだ。

ちなみに、この人事の方、中々、熱い人で、

 もし、ミルコ・クロコップと戦えるなら
 会社をやめて3ヶ月トレーニングつんで、
 ミルコのハイキックを食らって死にたい

と力強く発言。 結構、身近にスゴイ人というのはいるものだ。

解なし

2006年7月21日 日常
学生時代、数学のテストでB5の問題用紙ぎっしりに問題が書いてあって、ひたすら計算式を書き、出てきた答えが0とか1だと出題者に馬鹿にされたような気分になったのを覚えている。甘んじて0とか1はよしとしても、答えが「解なし」なんて出てくると、本格的に馬鹿にされたような気がする。散々、計算して「解なしってどういう事だよ!」と感じる。今から考えれば、ただの笑い話だが、どこかで「数学とは必ず答えがあるものだ」という思い込みもあったし、残念ながら「博士が愛した数式」の博士も周りにいなかったので、憤慨したものだ。

ところが、働き初めて、世の中とは「正解がある事のほうが珍しい」という事に気がつく。

例えば、営業マン。どうやって売ればいいか?という営業マンの至上命題がある。たしかに売り上げの良い営業マンの方法はある。しかし、それがベストパフォーマンスであるかというは、経験則によるトレースしか方法がない。従って検証のしようがない。もしかしたらトップセールスマンだって、違った方法によれば、もっと良いパフォーマンスを発揮できかもしれない。そしてそれに気が付かないケースがほとんどなく、九九の問題ように「必ず答えが出てくる」というより「解なし」に近いのではないかと思う。ちょっと学術的な話なので、実生活とは必ずしも一致はしないが、言いたいこととしては、数学のテストのように正解に向かって走るという事は事実上不可能で、結果として「正解でしてた」という事の方が多いという事である。

ただ、逆転の発想として、正解がないからこそ、みんな「よくできました」から「もっと努力をするべきだ」のくらいの間で仕事をしていたり、社会生活を営んでいるのでないか。変な発想だが、自分の奥さんや旦那さんが、必ず自分にとって一番ベストの伴侶か?と言われれば、結果としてよかった、悪かったという事は分かるが、それ以外は誰にもわからない。

だから、余り「正解にこだわる」必要というのはないのではないだろうか。そもそも我々は「解なし」の世界に生きているのだから、良い結果を導くために努力する必要は当然あるが、そもそも答えのない世界に、無理矢理「これが正解、間違いない」を出し、それに向かって走り出すというのは、必ずしも正しい事ではないと思う。これに気がつくと、結構、楽チンに生きていけるのではないかな。

伝統芸能

2006年7月20日 日常
極楽とんぼの山本という人が、いろいろやらかして大変なことになっているようだが、どうもここ10年くらいはバラエティーらしき番組をほとんど見ていない。従って、極楽とんぼという人達が、どんな人達か?というは詳しくしらない。見なくなった理由は簡単。つまらないから。なんだか、芸能人というの「芸に能(力)がある人」というものだと思っていたし、今も思っているのだが、どうも、適当にしゃべって、力技とテロップで笑わせるような傾向があるから。その点、昔の芸人さんのというのは素晴らしい。例えば松鶴家千歳師匠。

 俺が夕焼けだったころ弟は小焼けだった。
 父さんは胸焼けで、母さんは霜焼けだった。
 わかるかなぁ わかんないだろうなぁ

多分、ナウなヤングにはさっぱり分からないと思うが素晴らしい芸である。何が素晴らしいって、韻を踏んでいる。誰も考えないようなことが芸ではないか?また違ったジャンルで言えば、林家ぺー氏。365日の誕生日で有名人の誕生日を覚えているというだけで、立派な芸ではなかろうか。ただ、最近、この手の芸を継承する人がいなくなっているとも聞く。寂しい限りだ。

去年だか一昨年、波多陽区が「ギター侍」としてやたらテレビに出ていたが、どう考えたって、堺すすむの「なんでかフラメンコ」の方が面白いだろう。もちろん牧伸二も波多陽区より5億倍面白い。

堺すすむのサイト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nandeka/susumu/
(なんでかフラメンコのネタ帳が最高)

牧伸二のサイト
http://www.jap.co.jp/makishin/

女性専用車両

2006年7月19日 日常
会社の帰りに横浜で買い物をして帰宅する際に、最近利用しなくなった相鉄に乗車。横浜駅で、かなり後ろの車両に乗っしまったので、途中の希望が丘で前の車両に乗り換える。で、希望が丘から2つ目の瀬谷に到着。発車まぎわの駅のアナウンスで乗った車両が女性専用列車だと知る。その瞬間、ドアが閉まる。

さて、どうする!

って、もうしょうがないよな。

あえてジタバタせず居直って『ここが女性専用車両って気がついていないよ〜』オーラを出しまくる。

まあ、女性専用車の必要性は分かるが、何も車両の真ん中にしなくてもなぁ。大和まで『女性専用車ですよ』と注意しなかった19時28分発急行海老名行の女性専用車に乗っていた、女性の皆様に武士の情けを感じる。
20歳くらいの女の子に「どんな男の人がタイプ」的な質問をすると、多くは「年上の人」という返事が返ってくる。理由を聞くと「同じ年、年下は子供っぽいから」というのがほとんどだ。もちろん例外もあるだろうが、ほとんどのケースがこのパターンに当てはまる。ただ、実際、そういっていた子が、同じ年だったり、年下の子と付き合うというケースも多いのだが、やはり、理想と現実のギャップというのは、埋まらないものだと思う。

だた、これが20歳を過ぎて、社会に出て働きだすようになると、年齢差というのが、余りに気にならなくなるのだが、理由としては、本人の許容が広くなるという事が大きい理由ではないかと思う。相手が変わるのではなくて、自分が変わるという事ではなかろうか。逆にいつまでも20歳くらいの感覚でいると、誰にも相手にされなくなるか、奇遇に同じような感覚の人が現れるまで待つことになる。

付き合う、付き合わないという話は別にして、個人的には年上の知り合いが多い方がよいと思っている。理由は簡単。自分より人生経験が多いから。これは
、どんな素晴らしい会社にいるとか、学業を修了したという事より、多く生きているという事が、よっぽどスゴイことではないかと思う。そういった意味では20歳くらいの女の子と似たような感覚かもしれない。

もちろん「年下、同じ年の知り合いはいらねーよ」という話ではない。働きだすと、やたら同じ年の人に会うでけで嬉しくなるという訳の分からない感覚が生まれてくる。逆に年下の知り合いでも、自分達の世代にはなかったような感覚を持った人に会うととても新鮮である。つまりは、年上の知り合いを2とした場合、年下・同じ年が1ずつくらいのポートフォリオが一番いい気がするのだが。もちろん「年齢でダメ」という話ではないので、あしからず。
女性の友人が第一子を出産して、mixi上に出産後2回目となる日記で色々と子育ての苦労を綴っている。その中で

> 毎日良く分からないうちに一日が過ぎて・・・

という文章があったのだが、妙に惹かれる。飾りはないがリ、実にアリティな文章だと思う。そもそも、blogであれば、多かれ少なかれ、ちょっとは格好よく書こうとして、うまくいかず、結局は駄文になってしまうことが多い。しかし、ありのまま、苦労や喜びを文章にすることが出来た時、決して文体としては、普通の文書でも書き手側の気持ちというのが、十分に伝わってくる。友人の文章にしても、初めての子供を出産して、子育てに苦労し、何をしていいのか訳も分からず日々が過ぎていくのだという事がハッキリと分かる。

突き詰めていけば、こういって文章を多く書けることが、人の心を打つのではないかと思う。文章にはそれ自体に力がある。受け売りや、誰かが言ったことを少しアレンジしただけのものは、か細く受け手側に印象は残らない。しかし、ありのままを文字に表せたときの文章というは、たとえ近い古された言葉であっても力強く凛々しい。多分、意識して書いてうちは、ダメだと思うけど。
新潟競馬場に行ったのだが、馬券はからっきしダメでも、それを差し引いてもなかり楽しかった。次回はもう少し工夫すれば、もう少し安く新潟まで行けそうだ。

俗に『飲む、打つ、買う』という、荒くれ男の代名詞のうち、自分は極めて微額ながら『打つ』だけやる。そんな中でも旅打ちはかなり楽しいという事が分かった。また飲む人は行く先々で、ご当地の酒が飲めて楽しめるのは実にうらやましいとも思う。

しかし競馬にしても野球の遠征にしても、ご当地に友人・知人がいて、その人達に会うだけでも、かなり楽しい。今回は新潟の同僚に色々と世話になったのだが、『よっしゃ行くか』という原動力の一部になったという側面もある。だからいつも思うのだが、旅打ちにしても、野球の遠征にしても、それ自体が『いい訳』になっているとも言える。

やっぱり普段と違う場所で普段と同じ事をしても、環境や人によって随分、印象が変わるということだな。

信用

2006年7月15日 日常
最近、言葉の壁という事を実感している。といっても、日本語と英語といった言語の違いではない。自分の思っていることを完璧に相手に伝達・表現するという事が不可能であると分かりはじめたから。自分の思いを相手に何の誤解もなく、完璧に伝達・表現しようと思ったら、言葉であったり、文字で表す他、方法はない。しかしながら、それらは決して自分の「真の思い」であるとか「真の考え」が、ストレートに伝わるという事は滅多にない。相手にもよるが、せいぜい8割から9割が限界ではないだろうか。だったら、その1割、2割はどうしたらよいのかといえば、相手を信用する、される他ない訳であって、言葉や文字に限界があるわかってしまった以上は、そちらに注力する他ならないのではないかと思う。

相手を信用したり、されたりするのは時間がかかる。中々、今日、会った人とすぐに出来上がる代物ではない。「コミュニケーション能力」と簡単に言うが、実は、言うほど簡単ではないし、出来たとしても、本当にそれが正しかどうかまだは、誰も面倒みてくれない。結局は当事者同士、いや自分にしか分からない話ではないかと最近思う。

定礎

2006年7月14日 日常
たまたま設計の仕事をされている方と食事をしたのだか、何故だか忘れたが『定礎』の話になる。気にしない人は全然、気にしないと思うが、ビルの入り口の片隅にあるプレート板。

定礎とは、建物が完成した記念のプレートだけかと思っていたが、実はプレートを開けると小さなスペースがあり、そこに建物完成日の新聞やコインなどを入れておくそうだ。最近では形式的になってしまっているケースも多いらしいが、元々は、子供が生まれた時に、その日の新聞を保管するのと同じとのこと。しかし最近は、古いビルを壊す際に容赦なく、定礎部分をジャイアントブレーカーで木っ端微塵にしてしまうらしい。

礎を定めると書いて『定礎』意外と奥が深い

失われた10年

2006年7月13日 日常
日銀のゼロ金利政策が解除されて、公定歩合も現行の0.1%から0.4%へと変更すると発表。なんでも公定歩合の上昇は15年ぶりとのこと。ちなみに就職してかに公定歩合が変更になったのはこれが2回目。11年もの間、2回しか公定歩合が変更にならなかったというのは、とにもなおさず「失われた10年」という言葉がぴったりではないかと思う。公定歩合の変動は、日本経済に間違いなく多大なる影響を与える。

今年の春に何人かの友人が、大学を卒業して新たに社会人になり知っている限りだと、就職できなかったという友人はいない。このような話を聞く確実に景気回復をしていると肌身に感じる。この10年では、大学を出たはいいが、就職先が見つからないという知り合いが結構いる。そして未だに派遣も含めて就職していないのは今も変わらないらしい。

考えてみると、日本の教育制度の場合、中学から高校に入り大学というのが、王道で大半の人が、そのレールに乗ってきている。しかも良い大学に入るため、よい高校に入るように努力する。さらによい高校に入るように、よい中学に入るように努力・・・と果ては幼稚園まで続くのだが、めでたく大学に入り、さて就職しようと言った時に「失われた10年」にぶちあたると、かなりの悲劇が待ち受けている。結局は時勢には逆らえないというか、一生懸命がんばったとしても、覆せないものというのは、世の中にはあるのだと、就職できなかった友人達を見て思う。

しかしながら、彼らが心血を注いで受験勉強を勝ち抜いて辿りついた場所が「失われた10年」であったとしても、その努力というのは決して否定はされないのではない。むしろ大事なのは、それを何らかの方法で生かすことだと思う。そういう考えになってほしいと思うのだが、時間がそれを許してくれない事が多い。人間は目標が失われると、中々、次への意欲がなくなるもの。しかし脱却しないと、決してよい方向には向かないのではないかと思う。
http://www.1101.com/essay/index.html

山田ズーニーさんのコラムより。

何日か前に高校時代の話を書いたが、そこから考えても、今にいたるまで、環境として女性が多いところに身をおくことが多い。取り立てて「狙った」訳ではないが、そうなっている。mixiのマイミクも6割は女性。もてるとかもてないという話ではなくて、ただ、そういう状況下にいるというだけ。前にも書いたが、そんな状況だと、別に「女だから」とか「男だから」という意識は、薄くなっていく。「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」は、実は大したことないよね。というような考え方。このコラムによれば「勉強が出来る女性は嫌われる、か?」というタイトルであるから、「男より勉強ができない女性はかわいいい」という事になるのだろう。

自分の場合、女性の知り合いも多く、その中でも、信じられないくらい頭の良い人が何人もいる。そして彼女達に共通していえるのは、決して「私はこんなにスゴイのよ」とは言わない。何年も付き合っていて、誰でも知っているようなスゴイ大学を卒業した事を後になって知るという事も珍しくない。「聞かれれば言うけど、あえて言うほどでもない」というオーラがでまくり。そこで思う。

 男女関係なく、本当に勉強ができたり
 頭の良い人というのは、決して、自分から言わない

という事。何故なら本当にスゴイ人というのは「勉強ができる=頭のいい人」ではないという事を我々より深く、そして正確にわかっているからだと思う。また、そこそこの人達が「そこそこできるのだぜ」と言う。それはそれで、個人の表現方法だから否定することもない。ただ「勉強ができる=頭のいい人」という考えの傾向が強い。

まるで、相手に対して情報がない時に、ひたすら自分の意見だけいいまくる人というのは、話に深みがなく「どうだ、完璧だろう」という感じが受け取れる。逆にこちらの意見を受けて、それに対して何かしらの対応できる人というのは、それだけ、情報量も豊富で理解力がある。そういった人というのは、話していても楽しい。幸いなことに男女を問わず私の友人・知人は、こういった人達が多い。そのレベルの人達が大勢いると「勉強ができる女性が〜」という話には、まったくならないし、誰も思ったりしない。また「どうだ、完璧だろう」的な事を言う人は、外野から見ていると、やはり、特定の輪の中で活動しているようにも思える。

自分は、大して勉強もせず、かなり人と違う学歴で今に至っている。そういった意味では、情報力と理解力が豊富な友人が多く幸せだと思う。

先制攻撃

2006年7月11日 日常
先週、北朝鮮が7発もミサイルを撃ち込んだおかげで、当然、出てくるであろうと思われた「自衛権」の問題。安部晋三氏が「先制攻撃」のような発言をし、韓国が猛反発と、お約束の展開。だいたいこのような話が出てくると「朝鮮日報」の日本語版Webサイトを読むこととしている。

(朝鮮日報 2006/07/11 社説)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/07/11/20060711000003.html

と、毎度おなじみの主張。ところが13日の社説によると

(朝鮮日報 2006/07/13 社説)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/07/13/20060713000032.html

といった具合に、安部官房長官の弁護まで行かないが、それ以上に自国の大統領に対しかなり辛辣な意見が書かれている。同じ新聞社の社説なのかと思うのだが、類推すると「日本嫌い、アメリカ嫌い、大統領はダメ、北朝鮮も同胞だけどミサイルはダメ」という感じだろうか。

現実的に、ミサイルが日本の領土のどこかに当たらない限り、北朝鮮に攻撃という事は、実際にないだろう。しかし、仮に陸地にミサイルが当たった場合、日本はどうするのだろうか?そもそも日本国憲法下において、自衛権を発動し、他国と交戦したことがないので「本当におきた時」が、今後のガイドラインになるのではないか。ただ陸地に落ちた時点で、反撃することは整合性があるのではないかと考える。

平和が一番とは思うし、そうあるべきだと思う。タカとかハトという前に、相手が拳を振り上げていて、一発殴られるまで我慢しなければならない理由というのを文句だけいって相手の主権を侵害するような方々に、きちんと説明してもらいたいと思う。
業務にて。やたらに煩雑な業務を担当する。書類は全て英語。英語が理解できないとは言え、さすがに何年も外資の環境にいると、それなりに理解してくる。それより日本人の感覚にない書類を作るというのは、英語を読解するより苦労をする。先を読むではないが、国内向けの仕事であれば、ある程度、仕事の目的が予測できるが、外国向けの仕事となると、法規も違うし、国の文化や環境が違うから中々、そうも行かない。これが結構、しんどい。

とはいってもやらなければ、ならない事はやらなければ行けない。自分の性格から来るものかは分からないが、どんなに単純作業であってもテクニカルに作業をするのではなくて、時間をかけても全てを理解した上で進捗するようにしている。然るにある数字を作り上げるのであった場合でも、ロジカルにどうして、そうなるかを考える。確かに外国向けの仕事とは言え、理解しがたい部分はあるのだが、それでも何を言わんとしているかは、ぼんやりとは想像できる。ところが、中々、

 その目的に向かって何をするべきか?
 どうしたら効率的にできるか?

というアイデアが上手く働いてくれない。まるで新入社員のようだ。どうも、これは仕事に限った話ではなくて、例えば誰かと食事に行こうかという話になった時に、昔は無数の選択肢が出てきたのだが、最近は、1つ、2つと出てきるとおしまい。このような自体になる事が悲しくも思える。アイデアという財産が枯渇してきたのか、単純に歳のせいなのか。何でもすぐに出てこないというのは、結構、苦しい。
今回のスコープは、2ちゃんねる。何も2ちゃんねるに限った話ではなくて、そもそもは「ネチケット」という言葉がキーワード。よく知らないが、2ちゃんねるとて、罵詈雑言ばかり書いてあるものだけではないと聞くし、それなりの情報源があって、活用されているのであれば、まぁ、あってもいいかなということ。然るに「何がなんでもダメ」という話ではないという事を補足しておきます。

問題は「胸倉つかんで文句言ってやるわ!」という気概ない連中が多く、家に帰って、キーボード相手にうじゃうじゃ書いている連中が多いという事。ちょっと前にAERA(だったと思う)のだけど「インターネットとは半民主主義的」みたいな記事を読んだことがあるが、ようは「ある一定の意見だけが集まり、それ以外の意見はおかしい」というように局地的な全体主義的な傾向。まぁ、話半分くらいに読んでいたのだけど「たしかに、それはあるな」とも思う。

で、野球というカテゴリーでくくった場合、だいたいのケースが「俺の言っていることは正しいんだ」的なことを思っている人が多いから、極めて排他的になる。簡単な例で言えば「Aという選手が好きだが、Bのおかげで出られない。Bは今日も打っていないのだから、すぐひっこめろ」というような話が、あちらこちらで、出てくる。もちろん正しいケースもあるのだが、これがどんどん進化(?)していって、罵詈雑言に突入するというストーリー。極めて単純かつ愚な話で、結局はネガティブな世界に突入して、何を書いてもいいんだというアホな風潮が広がる。しかも匿名だから余計に都合が良いから、やりたい放題。

毎度、言っているのだけど、インターネットの登場により、全然知らない人とつながりが簡単にもてたり、情報を簡単にシェアできるようになったのだから、もっと有効に使うべきではないかと思う。それと、ケチャップをはじめ、やいのやいの書かれている人達は「ログで書かれていることは、所詮、ログでしかない」と認識すると楽になるのではないか。

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