お子様ランチ

2005年9月11日 日常
ふと、追浜に行く途中のファミレスを通過した時に「そういえば、お子様ランチ」を食べたことがないという事を思い出した。もちろん、1度や2度は食べたの事があるだろうが、大半のケースが、レストランに行った時も、それ以外のメニューを子供の頃に食べたという事。何年か前に母親にこの話をした所、母方の祖母の影響だったという。

自分は母方に於いても初孫に当たるので、それは、それは祖母に可愛がられたという。それとお子様ランチがどのように関連するかという、祖母は、私が、

 大人になった時に、TPOにあわせたレストランを選び
 恥ずかしくない料理を注文できるように

という趣旨で、お子様ランチ以外の料理しか「注文させてもらえなかった」そうだ。昔は今と違い、あらゆる所にファミレスなど存在せず、もっぱら食事といえば、デパートのレストラン街。それも今思えば到底、子供が行くような店ではなかったと記憶している。しかし、考えてみれば、いくらメニューを把握して、恥ずかしくない料理を頼むという趣旨だと言っても、所詮は子供。やはりお子様ランチは食べたかったという事をおぼろげに覚えていたりする。

ただ、今、年齢的に大人になって、色々な人とレストランに食事に行った時に、確かに「この店の値段はだいたいこのくらいで、このメニューで」というのは自然の身に付いたようにも思える。もちろん、それがお子様ランチを食べなかった影響かどうかは謎ではあるのだが。

Twenty-Four Season4

2005年9月10日 日常
毎度、毎度、期待を裏切らない凄い展開のこのシリーズ。ついにSeason4突入。今日、ようやくレンタル開始になったvol.1〜3までをレンタル。相変わらず無茶苦茶だったが、すぐにもvol.4を見たい衝動に駆られる。最近、これほど、ハマった作品はなかったもんな。

制服

2005年9月9日 日常
とある都銀に勤める友人(女性)と食事をする機会があったのだが、ここでかなり興味深い話を聞けた。なんでも、その銀行の女性の制服は、入行(入社)した時に、夏服と冬服の制服を1着ずつとブラウスを夏・冬それぞれ4着支給されると、その後は制服自体のモデルチェンジ以外、マタニティウエアを必要とするなど特別な事情以外は、サイズの変更は許されず、ほとんどの行員は入行の時の体型を維持するように努めているという、恐るべきなルールとなっているそうだ。そうはいっても、痩せるのはともかくとしても、太ってしまうと、ブラウスのボタンが飛んでしまったり、色々と不都合が多く、女性行員は、体型維持に苦労が耐えないらしい。聞いた話だと、その友人の同僚が、制服をクリーニングに出したはいいが、クリーニング屋が倒産して、制服が戻ってこなかったことがあったらしい。新たに申請するには、支店長クラスの稟議が必要で、新しい制服が到来するまで、エライ時間がかかったそうだ。

ちょっと考えてみると、すごいルールだが、逆に太った、痩せたのたびに制服のサイズ申請などを受けていたら、制服だけで「課」が出来てしまうだろうな。今度、その銀行に行って、妙にキツイ制服を着ている行員を見つけてみよう。
http://www.asahibeer.co.jp/news/2005/0909.html

古い友人、てつの日記より。アサヒビールで中々面白い企画を行っているものだ。自分は酒が飲めないが、飲める仮定、話が普通に通じるという仮定で色々と聞いてみたものだ。すぐに思いついたのは、関が原で敗れた石田三成。なんだか、愚痴ばかりこぼされそうだが、結果を知って上で、色々と聞いて見たい。最後は「色々と大変でしたね」と言うことになるだろう。

山本五十六というのも話を聞いてみたい。自分の意思とは関係なく、連合艦隊の長官としての立場というのは、どのようなものだったのか。色々な本を読む限りでは、当時としては、中々、斬新なアイデアの持ち主だったと聞く。思う存分「たられば」の話を聞いてみたい。

実際は絶対に無理な話だけど、考えただけでもなんだかとっても楽しい話だ。

見つかった

2005年9月7日 日常
mixiにて。見慣れない人の書き込みをもらう。もちろんハンドルネームだから、誰だか分からないのでResに「はじめまして、ようこそいらっしゃいました」と書いた所、実は同級生だという事が判明。向こうは先に気がついていたようで、リアルではないにせよ15年ぶりくらいの再開という事になる。

考えてみれぱ、Webやメールというのは物理的な距離が全く関係ないものだと認識していたが、どうやら仕組みによっては時空も越えるという事がわかった。それにしても、mixiのおかげで、古い友人に会えたと思えば実に嬉しい話である。
村八分というと「仲間はずれ」という意味で使われるのが、語源を辿っていくと、村の規則に従わなかったものを制裁する意味で「葬式と火事」以外は関わりを持たないという意味らしい。つまり、葬式と火事が二部に相当する訳だ。なんて日本人らしいルールだろうと思う。

世の中には気が合う人もいれば、合わない人もいる。それは少なからず自分にあるが「まあ、いろんな人がいるな」というと深く考えないようにしている。そうしないと、ヘンなフラストレーションが自分にたまってしまうからだ。しかし、仮にそういう人であったとしても、何かしてもらえば「ありがとう」と言い、迷惑をかけたら「すみません」と言った具合に最低限のマナーであってしかるべき。特に会社などは「色々な人」がいる所で、言い辛い事とか、正面切って言い辛い事とか、こそっとメールを送りつけて、それで物事の解決していると思う人が最近、多く見受けられるのだが、それは大きな間違いではなかろうかと昨今、よく思う。

Special Love

2005年9月5日 日常
業務にて。英文の財務諸表を作成。まずは、日本語のそれを作成して英語に翻訳。大した単語ではないし、会計用語は、ほぼストレートの訳であるから、大して苦労はしないのだが、

 特別損益

という項目が出てきた際、どこからか米米クラブのSpecial Loveが頭の中に流れ出し離れなくなる。よくある事といえば、よくあることなのだが。

思うに、米米が流行っていた頃というのは、高校〜20歳くらいまでだと思うから、俗っぽい言い方をすれば、一番多感な時期で、その頃に聞いていた曲や、楽しかった事、辛かった事、付き合っていた子などというのは、いつまでたっても忘れられない。逆に30代になると去年の記憶も一昨年の記憶も曖昧になって、いつ、何をやっていたか何て分からなくなるものだ。このblogを読んでくれる方で、その年齢の該当されている方は、どうか、今を大事に。大事にしないと、後できっと後悔しますよ。

壇ノ浦

2005年9月4日 日常
大河ドラマ「義経」の山場。壇ノ浦で平家を滅ぼす回。例によって、滝沢氏の演技はいつまでたっても上手くならないが、見事だったのが、平知盛を演じる阿部寛。殺陣も台詞の言い回しも、実にすばらしかった。何度か書いているが、ジャニーズ系のアイドルを使うのを悪いとは言わないが、もう少し勉強してから出てくるべきではなかろうか。

しかし、これからの「義経」は破滅への旅路。ここで終わった方がよいのではなかろうか・・・・
今週は長い一週間だってように思えるので、ようやくの休みの感あり。しかし、さりとてするべきこともなく、どうしようかと考えて、悲しいかな、思いついたのが、やはり野球。余り急ぐことなく西武第二球場まで車を転がす。11時に出たので2時間もあれば到着するだろうと思ったが、大間違い。西武第二(西武ドーム)までは、自宅から有効なバイパスがないので、一般道をひた走らなければならない。で、到着したのが2時すぎ。取り立てて見たいと思っていた訳ではないので、別に遅刻も気にならない。球場について、友人2人と試合もそっちのけで、くだらない話で盛り上がると、試合は8回裏、セドリックが5失点で湘南敗北。試合後は、唐突に国分寺にある「モツ鍋屋」へ。9月だというのに、3人して鍋をもくもくと食べ、ああでもない、こうでもないと、その場限りで忘れてしまえようない会話を3時間して店を後にする。

友人を一人、送り届け、今日という1日は、何であったかと考えた時、実は、この友達と会うが為にあった日と結論付いた。色々と世知が無い世の中ではあるが、こうして、ふらっと出かけて、そこには知った顔がいて、唐突に食事をして1日が終わる。結構、贅沢な話かもしれない。最後に行き着く所は、人とのつながり。これがないと何も始まらないという事。今日1日を大事に、そして明日会える人も大事に。そんなことを考え、ひとり東名高速を走っていると土曜日の午後は時間がゆっくり流れていくように思える。

着陸

2005年9月2日 日常
会社の場所が場所なので、丁度、羽田に着陸する旅客機が見る事ができる。今までは大して気にならなかったのだが、夕方の着陸ラッシュ時は、タバコを1本吸う間、4機以上は、その旅客機を見る事ができる。ゆっくりタバコを吸ってもおよそ5分。従って1分に1機は着陸している計算だ。考えてみれば、すごい話である。飛行機が飛ぶことに驚きは感じないが、1分に1機が着陸するというのは、なんたる運用なのだろうか。むしろこれで事故が起きない方が不思議にすら思える。

よく、その喫煙所では、IT部のエライ人と一緒になり、タバコを吸いながら、どんどん着陸する旅客機を見ては「絶対に航空管制のシステムなんて組みたくない」と言っているが、本当にその通りだ。先の羽田での停電の折は、マニュアルで着陸したというが、そんなことが何度もあるようでは、飛行機なんて乗れないな。

表現する勇気

2005年9月1日 日常
昔、何か考え事をしていて、それを整理する時には、小林秀雄の「考へるヒント」という本を何度も眺めていた(真剣には読まない)が、根本は変わらないものの、さすがに時代背景の差が著しく感じ、最近は

http://www.1101.com/essay/index.html

毎度おなじみ山田ズーニーさんのコラムを読むようにしている。これは眺めるのではなく、きちんと読んでいる。

表現をするというのは難しいと思う。会社でメールを発信したり、こうしてblogを書くことだって表現していることとなる。自分の考えている事を文字という「媒体」を通じて、表に出せは、それは批評されることもある。よく言われる分にはいいが、酷評されたり吊るされたりすることだってあるだろう。やはり、それが、心のどころにひっかかり、うまく表現できないことがあるのではないかな。

このコラムで、とても興味深いことが書かれている。

>「考えているけど言葉にできない」
> という生徒もいます。
> でも、それは考えているのではなく、
> 感じているだけなのです。
> 感じていることを
> 言葉にすることが考えることです。
> ところが、彼/彼女らが、
> 感じていることを言葉にできないのは、
> 勇気がないからなのです。

→ 感じた事を言葉にする事を考えるという

最近、思う。酷評されたり吊るされたりするまで行かないまでも、批評される事というは、無意味に「揚げ足」をとるなどは論外として、決して悪いことではないのではなかろうか。何度か書いているが、このblogをつけるという行為は、そもそも自己鍛錬のため。そのためには甘んじて人様の批評に耳を傾けるべきであろう。最近、その効果かどうか、仕事のメールや友達へのメールを良く言ってもらうことがある。しかしここまで来るのには、色々の人から批評をされたり、指摘されたりして、文書力の向上というのもあるが、何より以前に比べて「勇気」が付いたのではないかと思う。これは昨日、今日できたものではない。もちろん、今が完成形ではないし現在進行形ではないという認識だ。そういった意味では「考える、表現をする」という事は、何より難しいのだから、訓練をし、勇気をつけなければならないというのが結論。

晩夏

2005年8月31日 日常
毎年、お盆が過ぎると、次第に涼しくなっていくもので、昨今の会社帰りにトボトボと歩いていると、少しずつ秋になる様子が伺える。夏というのは四季の中でも「お祭り」みたいなシーズンで、8月31日という日は、どうやらお祭りの終わりを告げるような日にも思える。こう打鍵をしていても、別に何かいい思い出があったという訳でもないのだが、なんだか寂しくも思える。

やはり月日が経つのは早い。冗談ではなく、ついこの前、正月だったようにも思えるが、気がつけば、今年もあと4ヶ月で終わり、さらに「祭り」も終われば、あとの4ヶ月なんて、尚更早いのではないだろうか。そして、そのまま年が暮れていく。近年は、こんな感じだ。このままで良いのだろうか。と漠然と思うことがある。よいはずはないのだけどなぁ。
重なるときは重なるもの。というと、だいたいは友人・知人の結婚というのが、お約束のパターンではあるが、むしろ年齢的にも、そのラッシュは数年前に過ぎ去って、今やご懐妊ラッシュ。まったく因果のない友人・知人たちの「ご懐妊」の報が入ってくる。素直によかったと祝福したい。彼等は年齢的にも自分に近い。という事は、自分に子供がいてもおかしくない年齢という事だ。誰かが結婚するとか、子供が生まれると聞くたびに、そういった年齢になったという事を実感する。

現在を中心に5年前と5年後というのを考えてみる。今から5年前の2000年はどうだってあろう。5年前に5年後(つまり今)の自分をどう、想像していただろうか。また、5年後の2010年の自分は、5年前の自分(つまり今)をどう感じるだろうか。どちらとも取り立てて、何も考えていないというのが、結論だろう。多分、結婚したり、子供ができた話を都度「聞いているだけ」の自分というのは、彼等に比べてグランドデザインが出来ないのではないかという事に気つく。
古い友人のてつから回ってきました。何でもあるんだなぁ

【Q1】次のメニューにどんな調味料をかけますか?(薬味は含みません)
<目玉焼き>
ソース、醤油、塩・コショウのいずれか

<納豆>
 カラシと醤油。または醤油の代わりに添付のタレ。

<冷奴>
 醤油。これ以外は知らなかったのだが、塩というのもあるらしい

<餃子>
 醤油+酢+ラー油。一度だけ生卵というのもあるが、結構いける。

<カレーライス>
 なんか入れるものあるかな?

<ナポリタン>
 粉チーズ、タバスコ。場合によってはコショウ

<ピザ>
 タバスコ

<生キャベツ>
 千切りはソース。カケラなら味噌か塩。

<トマト>
 塩

<サラダ>
 最近はノンオイルドレッシング

<カキフライ>
 食べません。

<メンチカツ>
 醤油

<コロッケ>
 醤油

<天ぷら>
 塩か天つゆ

<とんかつ>
 醤油

<ご飯(おかず無しの時)>
 なし

【Q2】周囲に意外だと驚かれる、好きな組み合わせはありますか?
あまりないが、ベースは醤油。とんかつの醤油は一般的だと思っていたが、会社の同僚には「変わっている」といわれる。

【Q3】それが一般的なのだとは知っているが、苦手な組み合わせはありますか?
どうだろうか。思いうかばないや。

【Q4】バトンをまわしたい5名は誰ですか?
あー、今回はいいや。やりたい方、どうぞ。
今週末は神宮のヤクルト戦を3戦を全て見に行ったのだが、やはりというか流れというか、今日も、とても勝てそうな雰囲気ではなかった。決して負けたから言うのではない。もはや場内に、そういった雰囲気がただよっているように思える。色々な所をサイトや人の話を聞くと、私と同じように考えの人が多いようだ。何故なんだろうか?と考える。やはり目標設定なのであろうな。内部事情はどうであれ、やはりプロである以上は、勝たなければならないのは当然。どうも、ヤクルトと横浜を見ると、誰が打たなかった、誰が抑えられなかったという話ではなく、もっと大きな差ではないかな。

数奇な運命

2005年8月27日 日常
ちょっと前に、昔からの友人(女性)の誕生日が過ぎたという事に気がついた。結構、仲のよい友人ではあるが、近くに住んでいないので、毎年、誕生日にかかさず「おめでとう」メールを送っていたのだが、今年は、それすらも忘れてしまった。気がついた日に、メールを送って謝罪した所「忘れられたかと思ったよ(笑)」との返事。どうやら悪意がないという事は分かってもらえたようで、事なきを得た。

考えてみると先の8月25日というのは母方の祖父の命日だった。命日を忘れてしまうというのは、実に不肖な孫である。面目ない。このblogで以前、書いたかどうか忘れたが、うちの祖父というのは、今から33年前に亡くなっている。自分が来月12日で33歳であるから、自分が生まれる2週間前に亡くなったという事だ。これは最近知ったことだが、その祖父というのは、突然倒れて、3日後くらいに亡くなったそうだ。で、その訃報を誰に母に知らせるかという事で、結構、大変だったと聞く。そりゃ、そうだ。子供がもうすぐ生まれるというのに、自分の父親が突然、亡くなったと聞けば、どうなるか分かったものではない。ただ、結果としては、母は至って気丈だったそうで事無きを得たそうだ。しかし、現実問題としては、祖父が亡くなったという事は間違いない祖父は、初孫である自分の顔を見る事なく、この世を去った。さぞかし無念であったと思う。また、母は臨月の身の上、祖父の骨は拾えなかったそうだ。これもこれで無念だと思う。

この時期になると、母親が話す、この話を思い出す。時間が経つにつれて「仕方がなかったこと」とは言うが、それにしても皮肉で数奇な運命ではないだろうか。自分の出生の状況というは、無論、自分でどうにかなるものではないが、色々と考えさせられるものがある。

それにしても、今、祖父が生きていたとしたら、今の自分を見て、どう言うだろうか?と考える。母に言わせれば、祖父は厳格な人だったと聞くので、怠惰な今の自分を見たら、さぞかしご立腹になるだろうな。
龍神さんは、このBLOGをよく読んでくだるようで、とてもありがたく思います。そんな中で、私が今、一番、興味があるコミュケーションという分野で共感して頂けているのも、なんだかうれしく思います。という事で、『ほぼ日刊イトイ新聞ーおとなの小論文教室』を参照

http://www.1101.com/essay/index.html

ここの『連鎖』というのは非常に考えさせられた。確かに振り返ってみれば、自分が、相手の意思には関係なく『攻撃された』と感じた場合、その対象の相手ではなくて、まったく関係ない人に対し、攻撃しているという事というのは、あるかもしれない。それは無意識のうちに行われている事なので、実際の所は、本当にどうであったかというのは、自分自身ではよく分からないというケースも間々ある。そうだとしても、無意識というのは、本能に依存しているみたいな所があるから、ある程度は仕方がないかもしれない。では、攻撃と具体的に何であろうか。一番、簡単な例で言えば『やつあたり』ではなかろうか。受けた方にとっては、非常に迷惑この上ないことだ。ほとんどのケースに置いては、当該事項とは関係なく攻撃するし、されてしまう。大嫌いである。多分、自分も若い頃というのは、よくやったのではないかな。

今を去る事、約2年前。仲間内2人に相当、酷いことをされたことがある。シャレで済むような話ではない。彼等は既にCompleteと思っているようだが、こちらとしては、まったくの解決されていないという認識だ。それが何であるかは、この場で言うことではないが、とにかく相当酷い仕打ちをされた。で、考えるに、その頃の自分というのを今、思い返してみれば、やはり関係ない人に対して攻撃していたかもしれないし、聞きたくもない愚痴を周りにこぼしていたかも知れない。もちろん「連鎖」などという事など、この時点では思いもよらなかった。しかし、そんな状態が数ヶ月続いた、ある時、

  このままでは、周りまで不幸にしてしまう

と考えるようになった。多分、自分のどこかで「このままではいけない」という信号が増幅したのだと思う。自分で落ち込むの勝手。ただ、それが他人に波及する事があってはならないと感じたのだ。そこで考えた。できることには、限界があるかも知れないが、少なくとも、周りまで不幸にするのはよくないということ。

  願わくば、何か人の為にできれば

と針路を180度思い切って変更してみたのだ。かといって、実際にやったことといえば、ボランティアに登録したぐらいだが、やはり、この事象がなければ、そういった行動すら考えなかったかも知れない。結局の所、悲しいかな、人は「殴られないと人の痛みが分からない」という結論に達したのだ。つまり、その時の自分というのは

  殴られ足りない人生だった

という事に気がついた。簡単に「意識改革」と言うけれど、一発、すごいカウンターを食らわないと、本当に大事な事には気がつかないのではないだろうか。自分の場合、それをくらったおかげで、針路変更ができたし、たくさんの友達が増え、よい経験が出来ていると思う。そういった意味では「無意識の意識改革」が進捗している最中。できれば、未来永劫続けられればと思う。「情けは人のためにあらず」なのだから。

ファクス

2005年8月25日 日常
決して、誤植、誤字の類ではない。
気がつかないと言えば、それまでだが、"FAX"を新聞上(*新聞社のWebも同様)でカタカナで表記すると「ファクス」だそうだ。

どうも"ッ"を入れると、品のない言葉とよく似た言葉になってしまうためというのが通説らしい(未確認)

この手の話は結構あるようで、例えば漢字表記。以前は多くの新聞が「拉致」のことを「ら致」と表記されていたし、競馬の皐月賞は「さつき賞」と表記されたりしている。また、これらの規定は新聞各社が独自で決めているようで、同じ単語や漢字でもA社とB社の表記が違うこともあるそうだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050824-00000025-rbb-sci

すごいなぁ。自分が会社に入ったときに、部内に1台か2台しかないパソコンのハードディスクの容量が1GB(Windows3.1搭載)で「こんなに何に使うのだ!」と言った覚えがある。PCの技術とは文字通り日進月歩の倍倍ゲーム。いつかは出るだろうと思っていたが、ハードディスクプレイヤーが先に出るか。
まあ、出てくる出てくる。明徳からはじまって優勝チームの暴力事件。明徳の時も書いたが、これは程度問題ではないかと思う。何回以内がOKで、何回以上がダメというバカな話ではなくて程度問題。

我々の時代の部活動などというものは、殴られて当たり前という感じがあり、取り立てて問題になった事など記憶にないし、ましてや新聞沙汰になることなどなかった。部活動の顧問が生徒を殴る(もちろん理由あってのこと)など、いたって普通のこと。しかし、なんだか昨今の風潮を見ていると、些細とも思われることでも、世間沙汰になると、大きな波紋を呼ぶ。暴力の肯定はしないが、このような現状は憂いに思う。

もう、いっその事、入部の時に「もしかしたら殴るかもしれませんが、よいですね?」と一筆とったらどうだろうかね?第一に甲子園に出てくる高校のレギュラーなんて、殴られなかった奴なんて絶対にいないぞ。

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