高速道路

2004年4月29日 日常
免許をとって、初めて走った有料道路が横浜新道→第三京浜。その日は
バイトで中目黒まで行ったのだが、帰りに首都高の池尻から東名方面に
乗ったことを覚えている。この池尻というのが、右車線から合流という
初心者にとっては、これ以上ない恐ろしいインターである。でも今、
考えれば、それがあったから首都高を難なく走れるようになったとも思える。

どこの国の道路設計者だったか忘れたが、首都高速をジェットコースター、
中央高速を山岳道路と言ったのを雑誌で読んだことがある。
確かに、その通りだと思う。5号池袋戦などはRがきついカーブがいくつも
ある。さらに首都高速の場合、道を知らないと走れないケースが多い。
また中央道も談合坂付近では山登りのようになっている。
日本の地形を考えた場合、仕方ないことなのだが、もう少し考えて
作ってもらいたいものだ。そして何より料金が高すぎる。タダにしろとまでは
言わないが、渋滞等を考えた場合、値段は下げるべきだと思う。

ストレス2

2004年4月28日 日常
社内にて。とある部署の女性の課長が首にコルセットを巻いて
いるのが目に入る。その方とたまたま喫煙所で一緒になり、
どうしたのか?とたずねると、ここ数日で、突然、首に激痛が走り
動かせなくなってしまったそうだ。今日、病院に言ったところ

 ストレスの蓄積による筋肉の炎症

と診断されたとの事。症状を聞くと

・首が回らない
・寝返りが打てない
・激痛による吐き気
・入浴すると一時的に痛みが和らぐ

2月の自分の症状とまったく同じ。で、2月20日のこの日記を読むと、
首痛の事がかかれている。

http://diarynote.jp/d/17488/20040220.html

確かにこの前後1ヶ月は、経験したことのない首痛に苦しんでいた。
病院には行かなかったが、話を聞く限り、その課長とまったく同じ症状なので、
原因がストレスであるという事を今更ながら判明。
ストレスは怖い。ストレスを感じているというのは、自覚症状があるので
いいのだが、まったく自覚がなくサプライズでこのような現象が起こるのが
怖い。考えてみれぱ、去年の年末から2月くらいまで、とある事情で大変、
苦しんだ時期でもある。それが一気に爆発してしまったと類推できる。
その時程ではないにせよ、今でも首が痛くなることがある。おそらく効果的な
対処法はないであろう。

社会生活を営んでいる上で、ストレスというのは付いて回る。こればっかりは
仕方のない話で、おそらく逃れる術はない。であるならば、ストレスといかに
上手く付き合うかという事が重要かということではないであろうか。

ら抜き言葉

2004年4月27日 日常
共同通信より。とても興味深い記事を発見

−−−

3月の長崎自動車道全線開通に合わせて日本道路公団長崎工事事務所が
設置した案内板の「長崎芒塚インターからは出れません」との表記が、
「ら抜き言葉」で日本語としておかしいとの指摘を受けて
「出られません」と修正していたことが27日、分かった。
 同事務所によると、ら抜き言葉になっていたのは、新たに開通した
長崎インター(長崎市早坂町)に接続する一般道などに設置した
案内板8枚。同インター方面から入ると、隣の長崎芒塚インターからは
出られないため、間違わないように取り付けた。
ところが、道路の利用者らから「日本語としておかしい」などと
指摘があり、「あえて放置する理由もなく、きちんとした表現にした方が
すっきりする」として今月23日に書き換えた。
ら抜き言葉は、北海道や北陸、中部地方などで方言として使われている
一方、若者を中心に一般にも広がっており、「日本語の乱れ」とも
言われている。

−−−

記事になるほどの話か?と思うが。あくまで推測であるが、
指摘したのは、「ら抜き言葉」使わない方であろう。
知らなかったのだが、「ら抜き言葉」の他に「さ入れ言葉」
というのがあるらしい。具体例だと

 やらさせていただきます

というのが、該当するとの事。これは、使役の受動表現で本来不要な
「さ」がつくという事。
この「ら抜き言葉」は、自分としては使わないようにしている。
理由は、言っていて、聞いていて違和感があるから。例えば仕事の
電話の受け答えで、余りにおかしい日本語を使っていると、その相手は
もとりより、その会社自体を疑ってしまう事がある。

しかしながら、正しい日本語というのは誰が教えてくれるのだろうか?
とても国語の先生が完璧な日本語を使いこなしているとは思えない。
結果的には「言葉」というのは「正しい日本語」などというのは
存在しないで、常に変化をし続ける「道具」であると思う。

メモ

2004年4月26日 日常
以前の上司がよく言っていたのだが、

情報というのは、どこに転がっているか分からない。だから朝、
電車に乗っているときも隣の新聞を読んでいるサラリーマンが
何の記事を読んでいるか?廊下で同じ違う部署の社員が何を
話しているか?そういった事に常にアンテナを立てておくように。
と言われたことがある。

上記の例は極端としても、気にしておく事は大事。

で、情報を取得したとしても、氾濫するそれらを集約するには、
メモを取ることが重要だと思う。よくシステム屋さんと話していて
概要を絵面で示すと、そのメモ自体をエビデンスとして持ちかえる。
メモというのは重要なアイテムで、通常、受けた電話で、
走り書きでも何でも書いたものをクリアホルダに入れておくとと
後々、便利だったりする。4月に新入社員になった方々で、
この日記を読んでいる方、明日からでも実施してみてください。

中華街

2004年4月25日 日常
ベイスターズファンの知り合いが結婚するというので、横浜へ。
もう、結婚式だの二次会だのに何度出席したか分からない。だいたい
この手の会に出ると、年齢的に、もれなく色々といわれるのだか、
さりとて相手のある事なので、自分の努力だけでは、どうしようも
ならないのが現状である。そもそも努力しているか?
という質問に対しては?であるが。

二次会は盛大に行われ、出席はしなかったが、三次会が元町である
というので、数人を車で元町まで送ることにする。せっかく元町まで
来たので車を中華街の東門に付近に置き、フラフラと近辺を歩く。
最近、滅多に来なくなったのだが、この中華街、山下公園には色々と
思い出がある。友人と毎年、関帝廟に初詣に来たり、ベイスターズが
優勝した年に友人と騒いだ事、10代の頃、付き合っていた子と
よく来た事、中華街に初めてデートに来て、中華街で終わった事。

これらの話で、今も継続している事は何もない。理由は色々とあるが
自分が変わってしまったり、相手が変わってしまったりとさまざま。
ただ、この人の多さだけはいつ来ても変わらない。この雑踏に身を
おくたびに、色々なことを思い出す。これからも、この地で何かが
はじまってくれればと思う。

床屋のマスター

2004年4月24日 日常
明日、結婚式の二次会があるというので、早めに起きて床屋に行く。
間4年くらいは抜けているが、子供の頃からずっと同じ床屋に
通っている。かれこれ通算で20年以上にはなるか。理由は簡単。
自宅の前に床屋さんがあり、マスターがウチの親父の友人だから。
詳しくは知らないが、そのマスターが10年ほど前に、体調を崩し
現場を離れ、職人さんだけで営業をするようになっている。
そして今年に入って、そのマスターの体調が思わしくないらしく、
職人さん達に店を譲ったらしく完全に店から引いたそうだ。

今日、髪を切りながら職人さんにマスターの近況を聞く。
今は月に1回、その職人さんがマスターの家まで行って、
あくまで仕事としてマスターの整髪に行っているそうだ。
しかし、月を追うごとに、マスターがやつれて行くのが分り
とても辛いというのこと。

知っている人だけに話を聞いていても辛い。子供の頃、襟足に
色々と話をしながら髪を切ってくれた事を思い出す。
仕方のないことなのだが、時間の流れというのは誰にも
止められないし、それだけ自分が年齢を重ねたという証という
気がする。

役職名あれこれ

2004年4月23日 日常
全然、知らなかったのだが、当社では経理部に所属していると、
もれなくFinancial Controllerと呼ばれるらしい。
あまりコントロールしているとも思えないが。それにしても
昨今、外部の人と会い、名刺交換などしても、どれくらいエライのか、
どんな部署にいるのか、分からない事が多い。やはりシステム屋さんが、
その傾向があるように思える。とある大手システム屋さんの場合だと

 主任プロジェクトスペシャリスト

この人は、主任なのか?スペシャリストなのか?
そもそもスペシャリストって何だ?よくわからない。
ちなみにこの会社は、入社1年でスペシャリストというのが
付くらしい。もうひとつ役職が分かりづらいのが銀行。
とある銀行の窓口で、名刺を差し出されて

 ○○銀行 ○○支店 支店長代理

しかし実態は支店長代理といっても、その支店に何人かいて、
普通に札を数えたり、受付のお姉さんと一緒に伝票処理などの
業務をしており、大そうな名前だけで、役職名のイメージとは
随分とかけはなれているということである。

ちなみに商法の取り決めだと、経営者は取締役、代表取締役、監査役
としか規定がなく、世間的に言われる常務だの専務だの社長というのは、
各企業が勝手に言っているだけである。企業のトップを「社長」と言わない
一例は、普通銀行。通常は「頭取」と言われる。しかし信託銀行だけは
何故か「社長」という。これも結構謎な話。

英語

2004年4月22日 日常
話せれればいいなと思う。よく海外旅行から帰って来ると、そう思うというが
最近では、転職誌などを見ても"TOEIC○○点以上"なんて普通に書いてある。
考えて見れば、中学3年、高校3年、専門学校で2年と8年も英語を勉強して
いたはずなのに、全然話せないというのはどうしてだろうか?無論、マジメに
勉強していなかったと言われれば、それまでだが、多くの人がそうだと思う。

関連でコテコテの外資系の会社があり、外国人がわんさかいることもあってか、
コミュニケーションの大半は英語という事を耳にした。それがいいかどうかは
別にしてこの先、職務において英語が使えないと、頭打ちというのは目に
見えてきたしまったこのごろである。

九分九厘

2004年4月21日 日常
時に思う

 九分九厘大丈夫

という言葉があるが、残り9割1厘も残っているというが平気なのか?
普段、普通に思っていることでも間違っているのでは?と思うことは大事。
単なる屁理屈でしょうか?

テロと差別

2004年4月20日 日常
昨日のテレビタックルにて。自衛隊のイラク派遣により日本でのテロが
危惧されている。そんなさなか、アラブ系の人が新幹線に乗り、荷物を置いて
座席を離れると、同じ車両に乗り合わせた乗客が、一斉にいなくなったそうだ。
しかし、そのアラブ系の人は単にお弁当とお茶を買い座席に戻ってきただけで
席を離れた乗客も、一斉に戻ったのこと。笑い話にも思えるが、
実は笑えない話である。

違う見方をすれば「アラブ人を見ただけでテロリスト」と潜在的に
思しまう(しまっている)と言っても、過言ではないという事。
これは差別以外の何物でもない。しかし、差別はともあれ、
「私」をある程度、抑制し「公」を前面に出さないと、安全は
確保できないご時世になっているのかもしれない。結果としては、
どっちを取るか?また、現在の所、事態が起こっていないだけに
その認識が薄いというのも事実だと思う。

昨今、都内の主要駅では、テロ対策で警察官が多く立っている。仮に事が
起きた時に、迅速に対処してくれるかどうかというより抑止力が目的だと
思うが、効果は期待しない方がいいかもしれない。
仕事で、新しい業務運用などを決定する時には、何はともあれ一番初めに
《目的》を謳う。これを謳わないと、継ぎ剥ぎだらけとなり、決して
うまく行くことはない。

金曜日にとある若い人と食事をする機会があった。その人は、この日記を
読んでくれ、読んでいて結構、へこむ事があるという。ああ、そうゆうものか
と感じる。自分では、説教じみた事を書いていないつもりでも自分より
若い人達が読んで「へこむ」という事は、説教じみているという事なんだろうな。
あえて「言い訳」をすれば、めちゃくちゃ広いアウトラインとして、

 物事は順序立てて考えましょう

という事である。そして何事も目的意識を持ち
「始める方、進める方、終わらせる方」これは大事なこと。
そしてそこに出てくる人達は大事にしましょうという事なのだが。

最近は少なくなったが、やはりの若い人に

 「どうしていいか分からなくなり、不安になった」

と相談(?)される時期があった。何故「不安になる」という事を考えると
目的のためのプロセスの意識がなく、結果しか考えないから、
バックボーンが薄くなり、自らの目的に自信がなくなるからである。
であるならば「不安になる」前に、きっちりトレースするべきと、言う事に
している。しかしながら結果的に年齢を重ねて、ある程度、経験を積まないと
分からない話でもあるのだが。

この日記で綴っていることは、どちらかというと日記というより
「自戒」に近いものがあり、そのための備忘録として位置付けている。
無論、WEBに掲載しているから、書けないこともある。
また、ずっと継続的に書いているから、大きい・小さいというのもあるが、
矛盾を生じていることを認識している。ただ、これは、あくまで
「心にうつり行くよしなしごと」自分が思っている事など、いい加減に
「うつり行く」ものを前提としているが、根本は矛盾しないと思っている。
また副次効果としては、文章力の向上。仕事も仕事以外でも、
多くの人にメールを出すケースが非常に多い。例えば10人に送れば、
10人が勝手に解釈されるケースは発信側も考えなければならない。
これを解消するためには「不変的」な書き方をしなければならない。
実はこれが一番、難しいことだったりする。

財布の中身

2004年4月18日 日常
今日も横須賀へ。試合後、湘南の選手が実際に使用したユニフォームや
バット、ヘルメットのオークションがチャリティーとして行われた。
自分の財布と相談して参加しようかと思ったが、値はどんどん
上がり、とても話にならない。特にユニフォームは高額のものは4万円を
越える値で落札された。値段はある程度、予想していたにせよ、落札する
人達の財布の中に普通に4万円以上の金が入っている方に驚く。

最近は大きい買い物であってもデビットかクレジットカードを
切るので、現金は多くても2万円程度しか入れていないのだが、
世間の人達は、普通に4万円くらい入っているのだろうか?

宴会

2004年4月17日 日常
知り合いが結婚したというので、横浜で宴会。横須賀で試合で湘南の試合を
見て、一次会、二次会と渡って終了したのが、およそ23時。さすがに
13時の試合開始から、ほぼ10時間、騒ぎっぱなし。さすがに疲れる。
昔は、もっと遊んでも平気だったのになぁと思うと、ちょっと悲しくなるが
いた仕方ない。

やはり仲間と騒ぐというのは楽しい。思えば、元々、学校も会社も関係の
ない人達であるから、そのような人達と知り合えたことを感謝したい。

公務執行妨害?

2004年4月16日 日常
昼休みにて。昨日、一昨日と有給をとった同僚の休み中の話。
一昨日、家族で都内に車で出かけた同僚が、車線変更禁止違反で
捕まった話を聞く。(以下、本人談)

まずは、警察官に誘導され「車線変更禁止違反」を告知され、
謝罪という名の言い訳を10分ほど言ったそうだ。しかし、警官は
その話を聞くと有無を言わずに違反切符を切り始めたたそうで、
これに同僚が爆発。まずは免許証を提示したにも関わらず、
年齢を聞かれた事に腹を立て

 見たら分かるだろう。数えられないんなら、
 指貸したたろか?ボケ!

さらには一緒に乗っていた子供(*1歳)が泣き出したのには

 お前がトロトロしているか泣いてしもーたではないか!
 責任とれー!ダボ!

また、いつまでたっても切符を切らない警官に対して、
クラクションをならし続けたらしい。

話を聞いた、私を含めた他の同僚は唖然。公務執行妨害で
逮捕されなかったのが不幸中の幸いだ。と口々に言う。
おそらく、街のおまわりさんだと思うが、これが交通機動隊で
あったら間違いなく逮捕だと思われる。

気持ちは分かるが警察官には逆らってはいけませんね。

ハイジャック?

2004年4月15日 日常
社内報にて。当社が、昨年とあるスポーツ新聞で大々的に公告を
打ったことがある。それが、スポニチ公告大賞の「企画賞」を受賞し、
その模様が社内報にて掲載。しかし見出しが、

 ○○(商品)、紙面ハイジャック!!

いくら社内報とはいえ、酷い間違えだと思う。
どうやって新聞をハイジャックするのか、教えてもらいたいものだ。

歯医者にて。先日より毎週1回のペースで、歯医者に通っている。
初めて行った時から、気になっていたのだが、 先生と衛生士の
言葉使いがとても気になる。まず治療台に乗ると
 
 『(一週間)お痛みはありませんでしたか?』
 
 
また、治療台を倒すときは
  
 『(治療台を)お倒しします』
 
 
と言われる。いずれも丁寧に言おうという気持ちは分かるのだが、
とても違和感がある。社内報ともども国語の授業の重要性を考える
1日のような気がした。

同姓同名

2004年4月14日 日常
今の直属の上司(課長)は、同姓である。案の定、間違い電話やメールは
数多ある。部内では上司が「課長」と呼ばれ、自分は名で呼ばれているが
社外の人だと、さすがに姓で呼ばれるので、二人して返事をしてしまう。
とは言ってもデスクが隣なので大きな混乱にはならないが、とある
支店の支店長と同姓同名で、これが困る。やたらに間違いメールが多く
 
 今月の営業成績が話と違うようだが
 
と言った内容のメールが来る。その度に「間違っていますよ〜」メールを
出すのだが、今日、衝撃の事実が発覚。人事システムを新たらしくしとかで
自分のDBにアクセスして確認してくれとのお達しが出る。早速ログインして
自分のパーソナルデータを確認すると、名前以外は全然違うデータが
入っている。無論、自分のIDとPassでログインしているのだから間違えない。
不思議に思い、人事の担当者に連絡すると、どうやら同姓同名の支店長と
IDがそっくり入れ替わっているとの事。では、同姓同名の支店長は
どうしているのか?と尋ねると支店環境のIDでログインできるので
今の所、双方、問題ないとの事。ただし、その支店長が本社勤務になると
途端に、双方、ログインが出来なくなるとの事。
このIDは1年半前、今のオフィスに引っ越してきた時に付与されたもので
担当者に話を聞くとこのID自体が海外でハンドリングしているものらしいく、
訂正には、相当の時間がかかるとの事らしい。
 
 なんだかなぁ。

今は、問題ないといっても、1年半、誰も気がつかないというのは
いかがなものだろうか?同姓同名とはいえ管理はしっかりして
ほしいものである。こんなことがあると給与や賞与の査定も入れ替わっている
のでは?と気になったりする。

続・トルコの話

2004年4月13日 日常
昨日、文字数の関係で紹介できなかったトルコの話を追記。
トルコと日本の関係をさらにブレイクダウンして関係を調べてみる。
エルトゥール号以外にも、色々と逸話があることが分かる。
以下、関連サイトより引用

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(1) 日露戦争の勝利
その昔、トルコ人はロシア人にいじめられていました。ロシア人大嫌い。
なんとかやつらをギャフンと言わせることはできないものか、と思っていた
ところに日露戦争勃発。列強ロシアを極東のアジア人が破ったといいます。
おいおい、日本人がやってくれたぞ、日本バンザイ。
あの体の大きなロシア人を破ったのだから、日本人とはさぞかし力が
あって喧嘩も強い、もっともっと大男に違いない。すごいぞ日本人。
トルコ人は国をあげて大喜びし、力持ちの大男を想像して、
日本人に憧れを抱いたのでした。

(2) トルコ初代大統領ケマル・パシャ
トルコの初代大統領となったケマル・パシャ(アタチュルク)は、
トルコの近代化を計るにあたり、日本の明治維新に範を求め、
「日本に学べ」をスローガンにした。彼は明治天皇を尊敬し、
ベッドサイドに明治天皇の肖像画を飾っていたと言われている。
更に日露戦争で宿敵ロシアに日本が勝利したことにより、
現在にまで至る親日感情を根付かせてくれた。
今でもトルコでは日本文化を学ぶ伝統が息づいている。

(3) アジアの民?
トルコ人は、自分たちは中央アジアの草原を走り回った騎馬遊牧民族の
末裔であると信じて疑わない。この騎馬民族が西へ西へと移動していって
タタール人(トルコ人)となった言われているし、またそう信じている。
中央アジアに祖先を持つことに誇りを持っている。
このトルコ人達は、同じ騎馬遊牧民族が東へ東へと行って日本人になったと
真面目に考えている。すなわち、〈アジアの西端〉のトルコ人と
〈アジアの東端〉の日本人は同じルーツだと考えている。いわば、
トルコと日本は親戚のようなものだというわけである。

(4) ワールドカップ
ワールドカップ(W杯)の決勝トーナメントで日本を破ったトルコでは、
19日付各紙が「サムライを切った」「スモウのような押し倒し」
などと日本をイメージさせる見出しで、勝利の喜びを伝えた。
「スモウ」を見出しにしたのは同国最有力紙ヒュリエト。
「泣くなサムライ。心はみなさんと一つだ」などと書き、
トルコは日本の分まで戦うと伝えた。
イスタンブールで国旗を振って祝う人々の記事もあった。

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トルコの人達は、日本人を尊敬してくれている。トルコの田舎町に
行って日本人だと言うと、そこらじゅうの家からお茶に招待され、

『晩飯を食っていってくれないと、ご先祖様に申し訳が立たない』

など、冗談かと思うようなことを言われるくらいに日本人は敬愛されて
いるそうだ。何故、このような事実を多くの日本人は知らないので
あろうか?このような話は誰が止めているのであろうか?
「ハナにかける」という事ではなく、広く一般に知らしめることは
大事な事である。少なからず、日本という国を尊敬してくれている
人達がいるという事を。
びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、
真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)は、
はっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、
もう、何も聞こえなかった。このとき、台風で進退の自由を失った
木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルも
ある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどんどん
近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と
呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、
大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は
海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。
真っ 暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。
波に運ばれるままだった。そして岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」

懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」

という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。

「あそこに行けば、人がいるに違いない」

そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、
ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。
服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は
傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、
この人が海で遭難したことはすぐわかった。

「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」

と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」
「・・・」

言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人は
トルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、
身振りで、多くの 乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」

傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。

「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない
真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を
告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。
全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを
聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、
海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる
光景であった。村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、
日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。
自分の体温で彼らを温めはじめた。

「死ぬな!」

「元気を出せ!」

「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。
船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。
この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、
水は雨水を利用した。 サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた
魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、
生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。
だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁が
できなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」

一人の婦人が言う。

「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残った鶏を料理して、
トルコの人達に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を
取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、
丁重に葬った。このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、
そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣を
なされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に
乗せてトルコに送還なされた。このことは、日本中に大きな
衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に
届けられた。

+ 次のような後日物語がある +

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセインが、
『今から四十八時間後にイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす』
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちや
その家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわてて
テヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることが
できなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人は
パニック状態になっていた。そこに、二機の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、
成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
『エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなして
くださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたち
さえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけ
です。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、
トルコ航空機が飛んだのです』
-----

トルコが危険を顧みず自国の飛行機を派遣した事実は間違いない。
トルコは義理固い国であり素晴らしいと思う。元々イラクの人達も
親日派だという話をよく聞く。理由は有色人種で唯一、白人列強に
宣戦したからだと言われている。また太平洋戦争終戦後
東南アジアの各国で独立戦争が起こった折、現地に留まった日本兵が
いたと言う。これらは決して歴史の教科書に載ることはない。
言いたいのは戦争の是非ではなく各国の人達に尊敬されるとは何か?
という事である。国家間の話も、もとより個人レベルでも「感謝」
「恩返し」という事が希薄になっているような気がしてならない。
自分だけ、よければ、それでいいのか?

かな入力

2004年4月11日 日常
キーボードというのは、同世代に比べて比較的、早くから触れている。
丁度、中学2年の時に父親が会社からワープロのモニター製品を
持ってきたのがきっかけだったと思う。その時は、何か書類を作る
という目的ではなくただ、ドラクエの解説書に書かれているストーリーを
意味もなく打ってプリントしただで遊んでいたような気がする。しかし
今思えば、それがなければ、今のキーボード入力のスピードは
なかったと思う。おそらく、このご時世、パソコンを使う人間の1割
程度しかいない「かな入力」で、今もタイプしている。そもそもは、
このワープロが全ての始まり。自分が「かな入力」だから言う訳では
ないが、「かな」の方が圧倒的に入力数が少ないし、速いと思う。

そもそも、ローマ字入力にしたがる理由として聞いた事があるのが、
パソコンでコマンドを打つ際は、無論、英語であるという理由と、
ローマ字であれば、26文字の配列だけ覚えればいいという事らしい。
コマンドを打つのは、今や昔の話で形骸化されていると思うし
「かな」の配列だって「慣れ」の問題だけだと思うのだが。
使わないので、分からないが、そんなにローマ字入力というのは
便利なのであろうか?未だに「救急車」なんてローマ字で打てない。

もう17年も「かな入力」でやっているので、今更、代えることも
出来いし、さらに半分くらいはブラインドタッチになっているので、
代えようとも思わない。
これからも、世間のパソコンスクールや学校では、ローマ字入力で
教えていくのだろうな。でもパソコンの授業の若年化が進んだ場合、
ローマ字を早い段階で教えるという事になるのか?それはそれで
問題だと思うけど。
いつからだったか忘れたが、カレーチェーンのCoCo壱番屋に通うようになった。
このCoCo壱番屋は本社を愛知県の一宮におく全国展開のカレーチェーン店で
あそらく全国展開しているカレーショップというのはCoCo壱番屋だけであろう。
ここのカレーはベースがポークカレーに、カツ、チーズ、イカフライなどを
トッピング、また辛さも甘口〜8辛、量も200g〜1300gと自由に選択でき、
カレー単品の店ではあるが、かなりのバリエーションが楽しめる。

思うに、ゼロではないにせよカレーを嫌いな人というのは、そうはいないはず。
調理実習やキャンプなどは、もれなくカレーは出てくるのも、調理が簡単
なのに加え、このような要素があるのではないであろうか。ちなみにカレーが
日本の家庭に根付いたのは戦後の事らしく、復員してきた父親が、戦時中に
その調理方法を家庭に持ち込んだといわれている。また、旧海軍では、
長い航海で曜日の感覚を忘れないようにと、金曜日にはカレーをメニューに取り込んでいたそうだ。ちなみにこの話は、海上自衛隊にも受け継がれている
らしい。従って今日、横須賀がカレーの街と言われる所以も、そこにある。

そんなカレーを闇雲に食べたくなることがある。残念ながら、会社、自宅の
近くにCoCo壱番屋がないので平日は難しいが、土・日は、出かけた帰りに
よくCoCo壱番屋に寄る。メニューはだいたい、イカカレー+うずらの卵フライ
400g、1辛と決めている。いつ食べても飽きない味、結局、食べ物という
のはセンセーショナルに美味しいのも捨てがたいが、カレーのように
ロングセラーな食べ物も魅力的である。

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